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ブラック・クランズマンのclementineのレビュー・感想・評価

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
4.5
重々しいとはまた違うヘヴィーな作品だった。
2020年のアメリカ大統領選は,個人的に今までで一番興味を持って接した。
トランプは中西部のバイブルベルトに住む白人層に人気があった。(もちろんトランプを支持したのはこの層だけではない。)彼らは自分たちの生活が脅かされている一因が移民にあると感じており,それが証拠にトランプは票集めのためメキシコ国境に壁を建設しようとした。
当時の白人保守層のエクストリームで再生したKKKは,60年代におこった黒人による公民権運動に反発していた。黒人の台頭が気に食わない彼らは,劇中で描かれていたように様々な形で妨害をし自らの存在を高めようとする。
この構造は,仔細は違えど時を超えて同じだということが分かる。

団体が一枚岩ではないのも現在と同じである。信念を持つ者。快楽のフリーライドをする者。そこを票田としようと画策する者。
フェリックスが地下室で語る「俺は気づいちまったんだ。ホロコーストなんてなかったってことを。」というのは,まさしく現在のQアノン的な陰謀論である。
といった風に,トンデモのように見えるあれこれも,実際に今ここにあるものなのだ。
こんな人ほんとにいるの?という問いも映画の最後にてしっかりフォローしてくれる。

対立を煽るような内容だったという感想をいくつか見たが,私はそうは思わない。
確かにデュークをやり込める瞬間や計画が破綻する瞬間はこの映画の跳ねるポイントだったが,KKK側を一方的にさげすむ扱いはしていなかったと思う。
冒頭の白人アジテーターと,クワメ・トゥーレの演説。結果として武力の備えを促す両陣営(stand back and stand by)。そして憎しみを利用した「ホワイト・パワー」「ブラック・パワー」は,むしろ両者の同一性を示す表現だったように思う。
論理の正当性だけでなく手段の正当性も必要である。だからこそ不当な手段に繋がる「憎しみ」が忌むべき存在なのだ。連鎖の始点を辿る作業が一番の命題であるのは当然として,憎しみを発露した自分がそこにいることも事実である。
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