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天使のたまごのrejocquのネタバレレビュー・内容・結末

天使のたまご(1985年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

難解すぎて業界を干された(マジで3年位仕事来なかったらしい)、押井守ファンの踏み絵的作品。

まあ押井守が比喩暗喩の連続で現世を憂い疑問を投げかけつづけるタイプのモンをつくる人だと解ってみてればそこまで眠くはない。

少女が大事に腹に抱えるたまごってなんとも錯綜したロリコン感とマザコン感ではあるが、
卵子をもっと概念的に捉えると
可能性そのものであり
どうあっても殻を破らねばその光は見えない、掴めない
という、ちょっと乱暴な思想が見える。

たまごからかえると期待されている「天使」は希望を象徴したものだろうか。

「天使」とある時点で、キリスト教の宗教観が適応できるストーリーのはずと思って見てると、青年が聖書、創世記のノアの方舟の話を始める。大きな木はつまり世界樹であり、アメリカ大陸の大昔の宇宙論であのような描写がある。
神話は現実だったと裏付けとして出てくる天使の化石は縋るような希望の見出し方だなと思った。
神が起こす洪水のようなもので世界を一度リセットしたほうがマシなのかもしれない。どんなことがあってもまたやり直せる。まだ縋ってもいい神はいる。可能性はある。みたいなことだろうか。
(他力本願な願い方だ)

少なくともキリスト教がある時点でこれは恐らく地球であり、もう崩壊してしまっているが
また天使が生まれ、世界がやりなおされる可能性や希望が示されているように見える。

ストーン・ヘンジ的なもので細かく土地に境界が作られていた。崩壊して尚、自分たちが所有する範囲を決めようとしていたのだろうか。

指向性があるアメリカ的神話に従い、「鳥」は上のもの、「魚」は下のものという風に捉え見てみると、街の建造物の悪魔的なものはすべて魚の形をしている。
兵士のような人々は、もう守るべき民衆も居ないのに捉えられない悪魔(敵)を捉えようとし、己をギリギリ保っている。できない悪魔の証明に対しての取り組み、敵意でしか生を保てない虚しさを感じた。
人々はずっと愚かなまま変えられない、みたいなことが押井作品で散見されるが、この作品を見ると人は愚かであることで人として生きながらえている、という風にも捉えられる。

あのオディロン・ルドンの夢の絵画のようなものは、恐らく方舟だろうか。まあ大きく見ると彼も方舟に乗っていた人間であり、「どこから来たか忘れてしまった」問いは方舟から来た。みたいな答えになるだろう。
つまり人間はみな同じところ(たまご)から来ていると。
人はみなきょうだいである、キリスト教的考え方だ。

少女も青年もそれぞれ出会うまではかなり孤独だったと見える。孤独な人間であるかれらは自他の間に引く境界の必要性を失い、個を失いかけていた。

だから
「きみはだれ?」

の問いに答えられない。
それまで答える必要がないほど孤独だったのかもしれない。
というか、方舟にあの少女の彫刻があった時点で、彼はそれを見た記憶を元にずっと夢を見ていたのかもしれない。
となると、彼はあの壊れた地球で一人ぼっちなのかもしれない。

人々は他者と交わり、殻を破ったり、破られたりすることで可能性を見つけて成長していく。
みたいなメッセージを感じた。
押井作品の社会風刺的な側面が絶望させたり無理に鼓舞させたりするものではなく、考える機会を与えてくれたりするのは、いつまでも愚かしい人間を諦めない優しさみたいなものがあるからかもしれない。


アニメーションとしても眠いのは眠いけど
ところどころ手が美しく生なましい動きをしたり、天野さんの絵ってそのままアニメにできるんだぁ…という感動を覚えた。
あの青年の武器や、生きてるみたいな動きしてた戦車?のようなヤツもどう攻撃するもんなんだろう、と気になるやつでしたね。

バセット・ハウンドは出てないが、犬の名前は「ガブリエル」なので、天使という存在で出てるとは言えるw
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