ビューティフル・ボーイという映画を観た。
こちらは、薬物依存に苦しめられる青年と彼に寄り添う人々の姿を描いた作品。
作中で彼の父親が「自分が育ててきた子なのに時々この子は誰?と思う」と言っていた。
多分、薬物が無くてもそう感じることはあると思う。
けれど、そこに薬物が加わったら別人に思えてしまうことは数え切れないほどある筈だ。
それでも愛して寄り添い続ける本作の登場人物達から深い愛を感じた。
ドラッグを題材にした映画でいうと「バスケットボールダイアリーズ」「トレインスポッティング」などが頭に浮かぶ。
バスケットボールダイアリーズでも本作でも愛しているが故に断腸の思いで見放すシーンがある。
甘やかすことと愛することは違うのだと感じられる印象的なシーンだ。
そしてトレインスポッティングでは「結局、皆中毒者だ。何かに依存して生きている。」というセリフがある。
本作を観てもそう感じた。
人は何かに縋って生きている。
大事なのは何に縋るかだ。
自分にとって害のあるものに縋ってしまっている時、決まって「それ」は大切な娯楽や趣味の時間を食い潰す。
やがて「それ」が自分には必要だと錯覚する。
大学生の頃、僕がスロットばかり打っていたのも多分依存していたからだ。
当時、友達に「スロットなんて今度こそ辞める」と何度も口にしたが中々辞めることが出来なかった。
意思に反してパチンコ屋に足が向かってしまっているような感覚が怖かったのを覚えている。
そして、趣味が食い潰されていった。
文章を書くことも映画を観ることもギターを弾くことも本を読むことも、あの頃はしなかった。
そんなある日、パチンコ屋のトイレの貼り紙を見た。
そこには依存している可能性を示す症状が箇条書きされていた。
その中に「ギャンブルをするために人に嘘をつく」という項目があった。
おそらくこれが一番深刻なんだろうとすぐに思った。
本当のことさえ家族や恋人や友達に話せていれば、手を差し伸べてくれるかもしれない。
相談に乗ってくれるかもしれない。
けれど嘘をついていたら、その可能性は0に近い。
これは何に依存している人にも言えることだと思う。
本作の主人公は嘘をつき続けた。
それでも幾度と無く手を差し伸べてくれる人々が居た。
それを可能にする愛や優しさがあった。
本作は実在する父と息子の回顧録を基にしている。
本作は実話だ。
この世界は捨てたもんじゃない。