スローターハウス154

好きだった君へのラブレターのスローターハウス154のレビュー・感想・評価

3.0
2020/6/6


家族構成がよくわからないのだけど、ララJの韓国人ママと姉&妹の白人パパが再婚相手という理解で合ってる?
洋画を色々観ていると、アジア人差別の存在をそこはかとなく感じる。主要キャラにアジア人が出ているの珍しいな~と思うことがしばしばだった。まあそれがフツウか...という諦めもあった。しかしここ数年でアメリカやヨーロッパ圏の製作でアジア人が主要キャラに進出し、本作のように主役を飾る映画さえ増えつつあるように思う。なんだかんだ、以前と比べると世界は良い方向に行っているな~と思っていた矢先に今回の黒人差別の騒ぎ。

snsで「沈黙は暴力」といういささか無思慮で暴力的な意見を何度か見かけた。それに対抗するというワケではないが、この場を借りて以下、もちろん間違いもあるだろうけれど個人の、暫定的な意見を書いてみようと思います。
はっきり言って「差別ダメ、差別をするな」と言っているうちは残念ながら差別はなくならないだろうと思う。屁理屈かもしれないがその理由のひとつとして、有名な話だが「脳は否定形を理解できない」のだ。「梅干のことを考えないでください」と言われると梅干のイメージを思い浮かべてしまうように、「この人を差別しないでください」と言われるとその人に対する差別意識が生まれてしまうのだ。そもそも、もう2020年にもなったんだからいい加減「なぜ差別がなくならないのか」という根本的な議論をしましょうや、というのが今回の騒ぎで生まれた僕の不満のひとつ。
今回の騒ぎも、「差別はいけない」とみんな言うけれど「じゃあどうすればいいのか?」という疑問や意見はごく少数だ。「そもそもなぜ差別がなくならないのか」という根本的、現実的な話は、何しろ往々にして複雑で込み入った説明が不可欠なので、その理解に興味関心エネルギーを向ける人は少数派だ。わかりやすくて大きな声の方に引き寄せられてしまうのが、大衆の性なのだろうと思う。その声に引きずられなかった人も含めて「沈黙は暴力」と言っているのだとしたら、この言葉は無知を孕んだ練り直されるべきスローガンだろう。
「差別ダメ」という共通意思の確認のような啓蒙活動は全く意味が無いワケではないだろうけど、今回の騒ぎが起こる以前にもこのような差別改善を求めるデモは各地で何度も何度も行われていたはず。それでも改善しなかったのは、従来の啓蒙活動では解決できない致命的で根本的な問題がある、という可能性があるのではないだろうか。そうだとすれば、声の大きい有名人たちがツイートすべき内容は、周知の道徳の啓蒙よりも、何が差別を引き起こす原因なのか、それを実際にどう改善すべきなのかという建設的な疑問なり意見なりではないか? 声の大きい有名人たちのツイートでは差別をする側に対する“逆差別的”な意見も見られた。「差別する奴はクズ、黙ってろ」という旨。自分とは反対の意見には必ずヒントがある。どんな意見にも価値があると理解できなければ、どんな問題も決して解決することはできないだろう。むしろ問題の溝は深まっていくだけではなかろ~か、というのが僕の意見です。

どうすれば理想的な社会になるのか?そのアンサーのひとつとして、映画を挙げたい。
たとえば、この映画だと主人公のララJはアジア人だが、白人の家族に養われているという人種ミックスの家族。でもそれがごく当たり前の家族の姿、家族の日常として描かれている。また、ララJは既存の美的価値観には当てはまらないし大して努力をしていないにも関わらず、複数のイケメンの白人が彼女に言い寄ってくる。こういう世界は、現実では不可能なのだろうか?いや可能だ、フィクションの世界で描かれたものは私達の既存の価値観にわずかなりとも影響を与える。映画で見た理想を、現実の世界でも活かすことは可能だ。映画で見たなりふりを、現実の世界でもできる範囲で実行してみればいい。即座に世界を変えることはできないが、少なくとも自分の身の回りを良くすることはできるかもしれない。
だから、映画は現実を覆す力ある。映画は現実に対して非力ではない。映画の力を信じよう。映画を観よう。