【静けさとまなざしの映画】
静かな映画だ。
静かな分、豊かな映画だ。
主人公は、少年ユラ。
ユラという名前は、たまゆらの「ゆら」を連想させる。たまゆらとは、勾玉が揺れる程度の静けさという意味を持つ。あるいは、ゆらゆら揺れる、の「ゆら」を思い起こす。
その名の通り、発話は少なく、感情が大きく表に出ることは少ない。口元を結んだまま、いつもじっと外を見つめている。
だぼだぼで身体のサイズに合わない制服。
表情を読ませない、長く重めの前髪には内向的な性格がにじむ。
東京から北海道へ、無宗教からキリスト教へ、昨日までと日常が一変した少年。
日々の足場が不安定な揺れる存在。
だからクレジットで、本人の名前も由良であることがわかったとき、驚いた。
現実と架空のあわいが溶けてゆくような心持ちがした。
この映画には2つの静けさがあると思う。
ひとつは雪国であること。
ときおり画面の半分以上をうめる真っ白な雪。
ユラが初めて出来た友達と遊ぶのはいつも雪の中だ。雪というのは音を吸い込む。
そして雪の白に呼応するように、画面は白いモチーフが重ねられてゆく。
雪の積もった校庭を歩く、真っ白なニワトリ。
制服のくっきりとした白い袖と襟。白い花。
もうひとつは礼拝堂だ。あるいは祈りの場と言い換えてもいいかもしれない。
礼拝堂は、音が響く作りになっていることが多く、自身の立てる音に敏感になる。
音を立てないよう注意するということは、その空間の静けさに意識を向けるということだ。
それは、ときに、心の裡と対面するときのあり方に似ている。
劇中では嬉しいことも起こるが、始まりと終わりには苦しみがある。
祈りが問われるのは、いつも苦しみの中にあるときだ。ユラはさまざまに祈る。神を信じるか信じないかに問わず。
その姿をひたすら見つめる映画だ。
彼のまなざしを通じて、彼の横顔を通じて、わたしたちはその先にあるものを考える。
ユラには、小さな神様が見える。
神様はとてもユーモラスだ。千円札と紙相撲をしたり、踊って見せたり。
それがこの苦しい物語に、情けなさのような、愛おしさのような、おかしみを添える。
これは宗教的な映画というより、祈りに対する素朴な問いかけの映画のように思った。