Lovina

マイ・ブックショップのLovinaのレビュー・感想・評価

マイ・ブックショップ(2017年製作の映画)
4.2
映画2本立ての休日、1本目は『マイブックショップ』。



イギリスの、とある排他的な港町。
戦争未亡人のフローレンスは、一軒の古い邸宅を買い取り書店を開店させる。
住民は彼女に冷ややさな目線と風評を送り込むが、怯む事さえ無く、夢の書店を形にする所までは何とか漕ぎ着けた。
そんな彼女の元に、ある日一通の手紙が届けられる。
40年間自宅に引き篭もり、読書にその時間の大半を費やしてきた老紳士が、彼女の見立てで本を送る様依頼を寄越したのだ。
小難しい話と詩集は要らない、伝記なら善人が、且つ小説なら悪人が宜しいと。
そこから、老紳士と彼女の交流は始まる。
しかし本を介した心の交歓も長くは続かず、彼女は小さな港町に蔓延る権力と、理不尽な法の名の下に、小さな城の細やかな存続を脅かされてしまうー



書店員として大切な事が、そして共感が、この映画には詰まっていた。
老紳士の依頼で本を見立てる時に彼女が見せた、表紙を撫でながら思案する仕草。
そんな時、彼女には周囲の声も一切聞こえてはこない。
彼女を支配しているのは、少しの責任感と強い高揚だ。
1冊目に送ったレイ・ブラッドベリの『華氏451度』は老紳士の気に入り、同作者の作品をもっと、とせがまれる事になる。
選書が喜ばれた時の飛び上がりたくなる思いは、映画では描かれなかったものの私も体感として知っている。
そして、本がもたらす連帯の幸福も。



出版当時はアメリカで発禁となったナボコフ『ロリータ』を敢えて老紳士に送り、相談を持ち掛けるシーンも印象的だった。
これは良質な文学か否か、老紳士は遠慮がちに、しかし的確なアドヴァイスを下す。



余談だが、『ロリータ』はロシア人英文学者のナボコフが英語で著した小説である。
筋は割愛するが、ロリータ・コンプレックスの語源ともなったこの作品は若島正氏(一度偶然にお目にかかった事があると言う、余談中の余談も挟んでおこう)訳の冒頭が素晴らしく、今まで何度も口の中で転がす様に読んだ。

ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。

Lolita, light of my life, fire in my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.

英語で書かれた割に作中で同一人物の呼称をころころと変えるロシア文学の複雑さだけは健在で、読み手も難解な読書を強いられる。
しかし最後のページまで、『ロリータ』が持つ強烈な魅力は失われる事が無かった。



話を戻せば、この『ロリータ』の取扱に関して老紳士に相談を持ち掛けるその誠実さ(私だって文学に対して誠実な姿勢を崩した記憶は無い)や、
老紳士が1ページ目を捲る瞬間、こちらに乗り移る期待と不安(物語を始める時はいつだってそうだ)、
本を閉じた瞬間に表れる、余韻を噛み締める表情…
本を愛する人間ならば、些細なワンシーンに強い共感を抱く事だろう。

そして作中には、はっとする台詞も多く散りばめられていた。
人間は神、動物と美徳を共有する事が出来る。
神は美徳とも捉えないかも知れないが…
それは人間が持ち得る「勇気」である。
老紳士の「崇高な意思表示」、そして彼が持つ「尊厳と繊細さ」(訳もまた秀逸であった)も、真っ直ぐ心に響いた。



ラストシーンでは、今後の御守りとなる言葉も得られた。
人と人のみでなく、言葉と人の出逢いも一期一会なのだ。
何年も前、又吉直樹氏が仰った事は、今でも実感を伴い頻繁に思い出される。

「読書と言う趣味を見つけた事により、僕の人生から退屈と言う概念が消えました。」

私も本と出逢い、人生から退屈と言う概念は消え失せた。
今後の人生もそうだ、それは何と幸せな一生であろうか。
時間を潰す事も無い、何と言ったって潰す時間も概念として無くなるのだ。
空いた時間は、本の中へ旅する時間。
読書している間、私の心は世界中を自由に遊ぶ。
本があれば心はどこまでも遠くへ飛び、心の目を以って見る森羅万象は無限となる。
他人の心の核さえ、無遠慮に垣間見る。

この映画は、又吉直樹氏の言葉に次ぐ発見を私にもたらした。
最後の一言で、私の人生から消えた物がもう一つある。
それは敢えて書かないでおこう。
Lovina

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