Foufou

海底47m 古代マヤの死の迷宮のFoufouのレビュー・感想・評価

2.0
映画って撮り終えたあと、主に監督が主体となって「編集」という作業にかかりきりになる。この理解で合ってますよね?

あ、でも、イオセリアーニの『汽車はふたたび故郷へ』で、映画がなかなか完成しないことに業を煮やしたスポンサーが、編集の職人みたいなのを連れてきて撮り終えた膨大なフィルムをチョキチョキ始めて、これに主人公の映画監督が激怒するというシーンがありましたから、必ずしも監督=編集ではないのかもしれない。

映画は冒頭がマズければ、最後まで不調に終わることがほとんど。小説は必ずしもそうではなくて、持ち直すこともしばしば。この理由を時々考えるんですけど、要するに撮り終えてから編集作業に入るとき、編集者は当然脚本や絵コンテ、ロケ地、俳優、その他シーンごとの特記事項がすべて頭に入った上でそれを行うだろうから、その人のクセだとか、プライオリティの置き方とか、隅々まで意識裡無意識裡に反映してしまう。そういうことではないのか、と。小説もそういうことはもちろんあるんでしょうけど、書き終えてから、全体をチョキチョキ切り貼りする、よりは、推敲は剪定に近い作業に留まって、作家の得手不得手が、都度、書きながらリニアに出るものなんじゃないかと。

なんでこんなこと書くかというと、本作冒頭、主人公の女の子がいじめにあうシーンがあるんですね。頭から足先までずぶ濡れになって帰宅する。家で出迎える父親が相応の戸惑いを見せるのですが、娘を素通りさせたまま、これを追わないんですね。代わりに義母が娘を追いかける。濡れ鼠になった娘が帰宅して、なんでもない、と一言して素通りして、これを見送るだけで済ますということが、親として現実にあり得るかと問うて、少なくとも自分のこととしてはあり得ないわけですね。娘がずぶ濡れで帰ってきたら、平気ではいられないというのが、親の心情ではないか。

映画の本筋とはほとんど関係がないとも言える小さなシーンですが、結局、こうした小さな不自然を冒頭で許してしまう映画は、最後までそれを重ねていくことになる。こちらが粗探しの目になっているから、とも限らない。

古代マヤでは、生贄は貴重なタンパク源として食用に供されたという話です。そういうおどろおどろしさと、本作が結びついていればまだしもでしたが、海中遺跡は単なる背景にとどまりました。マヤ文明、関係ないです。もっと色々やれたろうに!

古典的なサメ映画でした。でも、サメがCG丸出しでなかったのは、とても良かった。
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