日本とドイツで異なる戦争の終わり方が、原子力への向き合い方に相関していると思われる。
権威主義(原発神話然り)を殺し、権力チェックへの意識(原発リスクとメリットの再考)を持てた独。それと対称的なまでに自己に無反省で、"消極的"集団主義が窺える日本。
その証拠を突きつけるように、独のエネルギー革命はメルケルではなく市民の手で起こされている。小さな意志が巨大化し、複数化している。そして「単なるNO」ではなく、代替装置への熱の入れ様が凄い。
映画で小川や緑地を頻繁に映すのは、日本の2752個のダムに於けるリスクコントロールの無責任さやコンクリートで塗り固められた河川(かつてコンクリートは高度経済性長期に於いて発展の象徴だった)を想起させて、拝金主義的な消費アニマルを揶揄しているのか。
原発の話題がイデオロギー的に消費される今日、真摯に事実を伝えるマスメディアと市民的な議論が必要。ビジネス利権とか政治的面子が強い日本では難しいかもわからないが。