みどりです

吸血コウモリのみどりですのレビュー・感想・評価

吸血コウモリ(1945年製作の映画)
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「海の生き物を扱った作品を中心に、生涯に200本以上の科学映画を送り出したフランスの監督ジャン・パンルヴェ(1902~1989)。若い頃にはアヴァンギャルド芸術にも関心を抱き、その作品は常に《知識》と《美》というふたつの方向を指し示した。真摯な探究心とユーモラスな遊び心を兼ね備えた、それらの作品の魅力は今も色褪せることがない。」

「パストゥール研究所の依頼により、牛馬を襲う南米のコウモリの生態を探求した一篇で、巧みな編集により、小動物の血を吸うまでの行動をフィルムに収めている。コウモリの紹介の前に、吸血する生き物の例としてフリードリッヒ・W・ムルナウ監督の傑作『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)が引用されているのが興味深い。」

デューク・エリントンの音楽と合わさっておぞましいホラー感がある。

「ジャン・パンルヴェ
1902年、数学者ポール・パンルヴェの息子として生まれたジャン・パンルヴェは、少年時代から映画館に入り浸り、夏になると避暑地のブルターニュで海の生き物と戯れるのを好んだ。政界入りした父は、第一次世界大戦終戦間際の1917年には首相の座に登りつめた。

 1921年にはソルボンヌで医学を修めることになったが、途中で専攻を動植物学に変更、海洋植物の研究所で、後に公私にわたる生涯のパートナーとなるジュヌヴィエーヴ・アモン(愛称ジネット)と知り合う。またパリでは、プレヴェール兄弟、ピエール・ナヴィルらシュルレアリスムの若き名士との交流を深め、その中で知り合った詩人イヴァン・ゴルの「芸術家が創造するすべては自然から生まれる」という言葉は、彼の人生の通底音となる信念となった。フェルナン・レジェの『バレエ・メカニック』(1924)やルネ・クレールの『幕間』(1924)、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1929)といったフランス前衛映画の潮流は、パンルヴェを科学と映画というふたつの道に同時に向かわせた。親友となった映画監督ジャン・ヴィゴとも、映画は社会変革に大きな役割を果たすという信条を共有した。

 パンルヴェが科学映画作家としての名声を確立したのは1934年の『タツノオトシゴ』である。この作品はマルク・シャガール、ジョルジュ・バタイユといった芸術家・思想家たちにも刺激を与え、このユーモラスな外見を持つ魚は彼の仕事のシンボルとなった。

 第二次大戦期、レジスタンス活動に入ったパンルヴェは、科学界や映画界との結びつきを確認しつつ、左翼映画人たちとともにフランス映画解放委員会(CLCF)の設立に奔走した。1944年、パリがドイツ軍から解放されるとCLCFはただちにパンルヴェを映画局長に任命、復興初期の9カ月間、彼は映画高等技術委員会、ニュース映画製作部門の創設など、映画界の立て直しに活躍した。

- 戦後のパンルヴェは、科学映画界の組織化に乗り出し、1930年に自ら設立した科学映画協会を復活させて、後の映画監督ジョルジュ・フランジュを事務局長に据えた。1946年には国際的な科学映画祭を開催、翌年には国際科学映画協会(AICS)を設立して会長となった。自らも映画製作を再開し、1948年には科学番組のテレビ放送、1954年には1929年の同名作品のリメイクである『ウニ』を今度はカラー・フィルムで製作し、順調な製作活動に入った。

 パンルヴェの映画は、それぞれ異なった観客を想定した3つのカテゴリーに分けられる。科学者向けの“学術用”、大学などで使用される“教育用”、そして短めに編集される“一般観客用”である。1989年に逝去するまで、パンルヴェは多彩な人脈を活かした自在な映画作りによって、生涯に200本以上の作品を残し、科学映画というジャンルを常に革新し続けた。」

https://www.yidff.jp/2007/cat089/07c091.html