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ジョーカーのYMのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

「なんだ、こんなものか」
それが、観おわっての最初の感想だった。
ヴェネツィアでの喝采。スタイリッシュな予告編。前評判を聞くだけ聞いて、今年一番の期待作として、2日前に予約してワクワクして観にいった久々の映画。それが、ラストになって「えこれだけ?」というなかば期待はずれかのような感情を私に催させてきたことは、驚きだった。

公開前から明らかだったように、「JOKER」はパプキンやトラヴィス(etc.)の映画のように、アーサーを中心に据えて、アーサーの行動や感情を追いかける映画である。

よく登場人物に自身を投影して「共感」しながら映画を観る人がいるけれど、というか、もしかしたらほとんどの人はそうかもしれないけど、私はもとから仮令そういう映画であったとしてもあまり感情移入せずに鑑賞するタイプだ。
だから今回も、物語そのものとアーサーの感情というよりは、むしろその感情描写であったりとか、画面のキレ味鋭く美しいカットの連続に視線が吸いよせられっぱなしだった。

ホアキン・フェニックスももちろん怪演だ。
これまでバットマンシリーズで観てきた、ジャック・ニコルソンが演じるジョーカーも、ヒース・レジャーのも、キャメロン・モナハンのも(厳密には、違うが)、それぞれに独特の魅力があり、どれも大好きなんだけれど、今回のホアキン・フェニックスのジョーカーは、そのどれにもない「ジョーカー」を魅せてくれて大満足。
スイッチが次々に入っていたびにホアキンが見せる、あるときは舞踊のような、あるときはミュージカル映画のようなダンスは、どれも印象深い。
そういったところは、とても良くできた映画だ。

だけど、いかんせん物語が弱いのだ。ライフイベントに転ばされ、時勢という偶然もかさなり、怒りという貧者・弱者の解放の武器の中心に祀りあげられる。これが評価のポイントだろうが、私には、いまの社会(not only アメリカ)に肉薄しすぎてしまって、あまりにも単純な構図になってしまったのか?と思ってしまうのである。
スイッチが入るたびに踊るアーサーだけど、とどのつまりアーサーはスイッチが入ってジョーカーを見出していくだけだ──コインの裏面に行くのでも、善から悪へと堕ちるのでも、転じるのでもない。ある意味、なるべくして、なる。
描写が良くできているので、その分、空虚な器に思えてならない。

さきほど、「感情移入して登場人物を観る」人たちのことを出した。
この映画は、そういう人たちのために作られた映画だったのかもしれない。
器に何を入れるか。「共感」か?

私は最初、これは富裕層も貧者・弱者さえも虚仮にしている描き方だと思った。なぜかって、彼らはサイコパスにだんだんのせられてジョーカーを"ヒーロー"として扱い、あたかも香港デモの戦いのような暴動を起こすのだから。でも、ネットの感想をおそるおそる開いて困惑した。
Twitterでみた、「JOKERをみて「わからなかった」といえる人生が羨ましいと思いませんか?」というツイートと、それに集まるアーサーの境遇へ自己投影した投稿の数々。そこまで言われるのだから、監督がいくら「政治的意図なんてないよ」と言っても(その発言自体もとからそうなんだから)フェイクだとしか受けいれられないだろう。世相を反映する、まさにあの劇中幾度となく登場する鏡のような映画だ。たしかに「報いを受けろよ!」と、至極あっさりと殺されるデ・ニーロのシーン、バカにしたやつをブチ殺すのは爽快なシーンだ。しかしながら、はたしてそこまで「共感者」が続出するほど、この世の中は「ゴッサム化」しているのか? 本当にその観方でこの映画に相対してよいのか?

この映画において、富裕層は、チャリティに顔を出してモダン・タイムスを笑いながら鑑賞する……まさに「──どうでも良いような他人に対して「我もなければ他もない」ような一体性を感じるが、逆に言えば、眼の前にいる他者に対しては冷淡そのもの──」(柄谷)だ。
そしてゴッサムシティで浮かばれぬ貧者たち弱者たちにとっては、地下鉄で金融街の住人(あの三人を評して上流国民という言葉を使っている人も見たが、なんともイヤーな言葉だ)を殺したピエロが、怒りの表象/最後の武器だというふうに、扱われる。

この世界は、はたしてほんとうにそんな二項対立にできるほど、単純になってしまったのだろうか──?
──そして悲しいかな、一方ではやはり僕だって、それも無理からぬ社会になってしまったと、認めざるをえない状況になっているのだとわからないわけではない。

富裕層の象徴として、あからさまに"トランプ"時代のエスタブリッシュメントとして描かれるトーマス・ウェイン。これは新しい。(余談だけど、この件についてネットで「ジョーカー トランプ」と検索してもトランプ時代のジョーカーを論ずるものより、当然圧倒的にカードの方のトランプが出てくる。)
でも、たしかにそうだった。この、なぜいままで考えられなかったのかふしぎなこの視点は、とても冴えていて良い(ところどころに、ウェイン家やアルフレッドの"改悪"だと評すものがいたが、まさに愚の骨頂。見方が変われば、人は変わる)。
思いかえせば、ゴッサムシティ郊外に住む富豪の自警人・バットマンとは、現代社会において、古き良き旧時代の遺物「ノブレス・オブリージュ」を問いなおす物語だった(他方トニー・スタークはどうかというのも考えていて、これもまた面白い)。
「Dark Knight Trilogy」はブルースが9.11以後のアメリカでその概念に苦悩し、「GOTHAM」はブルースがそこにあくまで愚直に気づいていく成長物語だ。
対して、ジョーカーというキャラクターは基本的に悩むことなくバットマンに対峙し「答えのないがゆえに善悪の概念を揺るがす問いかけで苦しめ(ダークナイト)」たり、「ただただ狂気のための器であることを自ら体現し(ジェレミア/ジェレマイア)」たりする者であった。では本作「JOKER」は? アーサー(くしくも聖王の名をもつジョーカー)は、遠くの風景しかみつめない富豪のノブレス・オブリージュを一蹴する。容赦なく。

だから私は、あのトーマスの息子であり、あのアルフレッドに育てられるであろうブルースが、やがて因果がめぐり、ふたたびこのジョーカーと対峙する瞬間がみたい。それが、このあたらしいゴッサム物語の解決篇ではないだろうか。そして、この時代にあるべき「(ノーブル・)オブリゲーション」を問いなおそう。そうでなければ、この映画は未完結で宙に浮いたまま、映画界の鬼子となってしまう。いや、本当は鬼子のままでもいいんだけどさ。もったいないと思う。

……といいつつも、これを書くまでに3日かかった。毎日、他の人たちの感想を漁っては、整理のつかぬ思いをこの映画に対して抱えていた。そしてようやくなんとか書くことを始め、いまに至る。「評価」という行為をしてはいけないな気さえさせた映画だが、そんな気分にさせたこの映画は近年稀にみる奇作/鬼作であることは間違いない、よ。
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