このレビューはネタバレを含みます
少女が憧れる恋愛を前半に描き、後半はその憧れに潜む危険性と暴力性、更にアイデンティティの確立までを描く。
誰かにラベリングされたり誰かをラベリングするんじゃなく、お互いがお互いを一人の人間として向き合うことで自分を見つけていく。
性愛の絡む恋愛、守る側と守られる側が決められた恋愛。これは旧態依然とした価値観で、この作品で示されるのはお互いがお互いを高め合うことで発生する恋愛。本作では、この3つの恋愛がメタファーとして3人の登場人物に当てはめられている。その目線で考えれば、最後に初美が一緒にいた人物が亮輝というのは必然的なのだ。
男性を振り向かせるために自分を偽ってきた茜ちゃんが、すばる君にレインボーベーグルを半分に千切ってあげるシーンは感動。これからは女性と男性ではなく、茜とすばるとしての関係が始まるということ。お互いに自分像が曖昧だからこそ、対等なのである。
"バカ"の意味が、前半と後半で変わっているのを気付いただろうか。
初も梓も亮輝も、最初は生物学的な性別やレッテルに捕らわれているんだけど、段々それを剥がして”自分”になっていくんだよね。それができた亮輝と初はお互いのとっての宇宙(=何にもカテゴライズされない個)になるし、できなかった凌は檻に閉じ込められたまま。そんな恋は悲しいよ。最後に気づいた梓は少し救われる。
「セックスしたらその人のものになるの?」
この言葉は初がいわゆる”バカ”だから出てきた純粋な疑問で、それを聞いた亮輝は、自分がこの世のことを何も知らなかったことを自覚する。
自分のことを無知だと思う人間の方が、いろいろな知識を吸収できる分、自分は何でも知っていると思う人間よりもいくらかマシなのだ。無知の知。
この映画においての”バカ”とは個としての自分であり、一番大人に見える凌君だけがバカになれずに終わっちゃうのが面白い。そして、すばる君と茜ちゃんのストーリーは、もしバカになれなくても二人がお互いを補い合うことで自分を作っていけるんだ、という温かさを教えてくれる。
前半の"バカ"は文字通り「馬鹿」だけど、後半で亮輝と初美が使う"バカ"は無知の知を意味している。知らないからこそ、知ろうとして行ける、知らないからこそ、語り合える。
「亮輝くんもバカになっちゃったんだね」
冒頭で初が頭を引き寄せなければキスできなかった亮輝が、最後には自分から初の背の高さに合わせてくれる。バカになっちゃったから、相手のことを思いやることができたのである。
あと、演出もすごい。
少女漫画みたいにスピーディーなカット割り、1秒たりとも無駄のない映像と台詞。まさに面白い漫画を興奮しながらめくっているような感覚で時間が流れていく。1コマ1コマに動きがあり、意味がある。凌の青と梓の黄色。初美の揺れ動く感情を色で表してるのも、細かいけど素晴らしい。
最初は凌に鍵を渡された初が、最後には凌に鍵を渡す(返す)。与えられるだけの存在ではなく、お互いに与え合うことができるようになった(=初のアイデンティティの確立)ことのメタファー。
台詞回しも面白くて、「ぺっ!だ」とか、「どうしようもないプップケプーなんじゃないの」とか、日常生活では言わない言葉が色々出てくる。何故ならこの映画は文字通り漫画を実写で撮った作品であり、無駄のない会話のために結果的に作品内リアリティを高めているところがすごい。
「初恋って、ずっと過去形にならないんだ」
この台詞は大好き。恋は他人に消費されたり自分で消費するものじゃなく、いつでもそこにあるんだよ、って。すごく優しい言葉。
「自分のことも待てないんだ。私が私自身を追いかけたいの。これからずっと」
これも大好き。自分のことも初のことも"ずっと待っている"凌との対比になる言葉で、初にとっての凌が"お兄ちゃんから成田凌に変わる瞬間"。この瞬間を少しの台詞で表すセンス。
そして、他己によって自己の在り方を決めてしまう人に対しての救いの言葉でもある。他者の価値観に振り回されているうち、いつの間にか自分が自分を追い越してしまっている。だから、自分を追いかけなくちゃいけないんだ。
「私、どうして大人になる前にセックスできる体になるのか分からなかった。17歳の橘亮輝くんに出会っちゃうからだね」
ここら辺はもう涙が止まらなかった。何度観ても、初めてこの映画を観たときと同じぐらいボロボロ泣いてしまう。この台詞は、まさにこの映画のテーマをそのまま言葉として喋っている。セックスは性欲によるものでもどちらかが主導権を握るものでもなく、お互いを知り、確認するためにするものなんだ。それを繰り返すことで"改めて"知り、"再"確認になっていく。
「今日だけって、毎日思ったっていいだろ」
これは梓の「俺の心は淡いにあるんだ。嘘とかホントとかじゃなくて」という台詞に対してのアンサーにもなっている。永遠に愛してるって思っても、次の瞬間には要らなくなっちゃうかもしれない。梓がそう思ってしまうのは、どちらかの性欲から発生する恋愛しかしたことがないから。だから、「今日だけって~」というのは梓に対する救いの言葉であり、初と自分自身を高めていく言葉でもある。そんな亮輝とお互いに影響を受け合った初との会話で、梓は最後に救われる。この辺も泣いちゃうな。
「俺の恋を分けてあげたいって思った、たった一人だったんだよ」
ここでいう恋とは、性愛のことではなく恋心のこと。梓が"性愛のメタファーから小田切梓に変わった瞬間"である。梓は"モデルという名の抜け殻"に小田切梓をしまい込んでいて、それが初と出会ったことによって自分でも気がつかないうちに段々と表出してくる。
「だって恋って無くなったりしないの。離ればなれになっても、あのときの恋が私だけの恋に変わっていくんだなあ」
一夜限りの性愛だけでなく、"その人にしか抱くことのできない感情"があることを梓は知る。結局、性愛だけでは人間は救われないということ。凄く響くし、男女問わず大事にしていかないといけないことだと思う。
「幸せって願われるものじゃなくて願うものじゃないの」
凌の台詞。この後、お父さんの「そんな恋は悲しいよ」という反応に対して、「知ってる」という答えを返す。
初と凌はS極とS極のような関係で、どちらかが求めれば片方が引く。これでは恋が成立しようが無い。エレベーターでの初の台詞「こういうの、ずっと小さいときになかった?(中略)一緒にくっついてあったかくて なんか……いい気分だった」これは、凌との関係が閉鎖的な箱の中でしか成立しないというのと同時に、幼少期から凌が初に恋愛感情を持っていたことを示している。その後ろめたさから、自分を隠して初を見守っている。でも、凌は"守るもの"と"守られるもの"というカテゴリーで恋愛を見ているし、それは最後まで変わらない。だから、ラストで凌は自分の城=他者の存在しない自意識に"後退"していくのだ。自分を追いかけようとする初とは正反対に。この、初と凌の関係の対比になっているのが茜とすばる。この二人はラベリングされた恋愛から抜け出して、最終的には不器用ながらもお互いを知っていこうとする。こういう描写もこの映画は手を抜かない。
上記のように、初にとって唯一"私でいられる"関係が亮輝なのだ。自分を隠さなくてもいい 。自分でいてもいい。自分の言葉で、自分の足で、互いの宇宙を駆け巡ることができる。それ以外の人間関係なんて旧態依然とした"化石"だと言い放つかのように、この映画はヌーベルバーグのような次世代の価値観を提唱してみせる。20年後、30年後。ずっと語り継がれる映画であってほしい。
あとは、音楽もクラシックと泉まくらを交互に使うという超越技術。現代的な少年少女の欲望と孤独と愛憎、希求を、現代的にアレンジされたクラシックが映像に流し込んでいく。
15回観たけど、何度繰り返しても新しい発見がある映画。
観たのによく分からなかったという人は、性愛(梓)、お互いが関係性という名の肩書きでラベリングされた恋愛(凌)、エゴをぶつけ合い、受け止め合うことでお互いを高め合っていく恋愛(亮輝)という3つの"人間の在り方"が描かれている映画だということを頭に置いて観直せば、楽しみかたが分かりやすいかも。そして、どれが自分や相手を救ってくれるのかも考えながら観るとなお楽しい。
※2020/10/07 追記・修正
※2020/10/12 追記・修正
今後も新たな発見がある度に追記します。