まぬままおま

アマンダと僕のまぬままおまのレビュー・感想・評価

アマンダと僕(2018年製作の映画)
4.0
レナ役のステイシー・マーティンが綺麗だったから、それだけでみてよかったと思う。
ただそんなくだらない動機ではみるべきでないほど、重い話。

主人公のダヴィッドと姉のサンドリーヌとその娘・アマンダ。彼らは時に喧嘩しながらも共に支え合いながら生きている。そんな日常の風景は、テロ事件によって一変する。そして偶然にもサンドリーヌはそこにいて、死んでしまう。ダヴィッドとアマンダを襲う愛する者を突然失った悲しみ。ウィンブルドンの試合を見に行く約束をしようとも、たわいない会話でバイバイしても、テロ事件は容赦なく別れの時間と命を奪う。そして愛する者を失っても生活は続く。悲しみにただ暮れることもできず、仕事をしたり、アマンダの後見人や裁判について考えなくてはいけない。

ダヴィッドがテロ事件の現場に遭遇したときや姉を病院に送るときにみせる表情が印象的だ。彼は全く動揺せず呆然としている。でももし自分が同じ場面に遭遇してもそんな表情しかできないと思う。それはあまりに突然で気持ちに整理がつかないはずだから。そして街を歩いたり、日常の仕事をしているとき、ふっと悲しみがなだれ込んで涙を浮かべるに違いない。

アマンダも母を突然失ったのに、悲しみに暮れてダヴィッドに駄々をこねるわけではないから偉い。確かに実家と叔母の家とダヴィッドの家を行ったり来たりしたり、誰がずっとそばにいてくれるのか分からないことで不安になる気持ちは分かる。けれどアマンダもアマンダなりに、母の歯ブラシをそのままにしたりして喪失感に向き合っている。

「エルヴィスは建物を出た(Elvis has left the building)」

サンドリーヌを失ってダヴィッドやアマンダに「望みはない」し、「おしまい」なのかもしれない。けれど彼らが彼女と行くことを約束したウィンブルドンの試合では逆転が起こった。そう彼らも人生を逆転できる。ダヴィッドはレナとセックスをして風向きが変わっているわけで、ではアマンダは?
「父」に見守られ颯爽と進むアマンダの未来はあまりに明るい、私はそう思う。

蛇足1
レナもテロ事件の被害者で右手に怪我を負ってしまう。そのために本業のピアノ教師に支障をきたすし、故郷に帰らざるを得なくなる。さらに爆竹のような破裂音でフラッシュバックが起こってしまう後遺症も残ってしまう。だがレナはダヴィッドに「一緒にはいられない」と小悪魔的な発言をしつつもセックスする。この被害者にはテロ事件に関わる時間以外の日常の時間があり、当たり前にセックスしているというリアリズム描写はとてもいいと思った。
蛇足2
一点気になるのは、サンドリーヌの死が、物語において彼女の周囲の人々がその喪失を受け入れようとする機能としか働いていない点である。アマンダが平然としすぎたり、実母がサンドリーヌへの気遣いをあまりみせないのはそのためだと思う。そこは捨象しすぎだと思った。