Chapter 3: Driftin' and Driftin' ( 1972-1987) 最後のシーンで(1985年アイダホ州メイテナンスショプでの) コンサートを観せてくれる。ポールがピアノを弾きながら『Done a Lot of Wrong Things』歌う。これを聞いた時、彼の人生を物語っていると思った。腹膜炎の痛みのうえ、麻薬、モルヒネ、アルコール、などなどから抜け出せなく44歳の人生を終えたわけだが、この歌詞が、なんともやるせなく、涙が出でしまった。当時、ドラッグのリハビリは現在ほど、一般的ではないし、『I've done a lot of wrong things I thought was right』とあるように、『 I had fun』だったし、『Cause I'm not the only one』だと思っていたようだし。これだけ自分の姿勢が強い人の言葉とも思えなかったね。『But that's alright』と人生諦めた?でも自分でこう言わなければ、誰一人こう言ってくれなかったのかもと思っていたと思う。なけるね...こういう人生。
ヴィデオ:https://www.youtube.com/watch?v=BQvHBLkSzUE&t=1577s (メイテナンスショプでのコンサート (25:55)からが、『Done a Lot of Wrong Things』)
Done a lot of dumb things in my life But that's alright Cause I'm not the only one
I've done a lot of wrong things I thought was right But that's alright Cause I had fun
But every now and then I find myself a sweet thing to come and keep me company
And when I get low I know right where to go Someone's there to take good care of me
このドキュメンタリーはよくいえば幅広く構成されている。つまり、ポールとバンドだけでなく、例えば、ポールが出演したNew Port Folk Festival (1965)(ここでは今、一番重要なバンドだとと紹介されていたようだね) https://www.youtube.com/watch?v=v9FFfFFkq00 の説明に時代背景や、ボブディランがギターを1965年にエレクトリックに変えたためブーインが起こった話。ここでマイク・ブルームフィールドがギター。他にもこの時代はビートルズやテンプテーション、バーズなどのこんな曲がヒットしていたとか。その時代を知らない人にとってありがたいが、私は単細胞なので、焦点がズレるので、結構キツかった。 ポールは44歳で他界してるので、彼の前妻、二人の息子、彼から指導を受けた人、数多くのバンドメンバーのポールの回想録が載っているし、詳細も説明されているが、ポール自身の言葉が少なすぎた。
Chapter 1: Born in Chicago 1942-1965 ポールはハーモニカのことを自分の分身のように捉えていて、『心の叫び』のような言い方をしている。プロ意識が高く、最後まで、ブルースを歌い続けた人。私にとって、この印象が強い。このドキュメンタリーの最初の曲はBorn in Chicagoでリック・ダンゴと一緒のバンドのときのシーンだ。(https://www.youtube.com/watch?v=ll7PIZPRFz0&t=3655s)
1942年にシカゴで生まれ、シカゴ大学のあるハイドパークで父親が弁護士だったと。子供の頃からフルートをシカゴシンフォニーの楽団員から習い、家族は芸術愛好家で、テレビもおかず、彼を含めた兄弟二人は芸術を愛する家庭に育ったと。University of Chicago Laboratory Schools(U-HI)という有名な私立の高校を出て、ブラウンに運動の奨学金をもらって入ったが、怪我で方向転換して、シカゴに戻ってきたと。これを聞いただけで、偏見承知でいうが、他のブルースマンとは違うね。
当時、アルバート・ キング マディ・ウォーター・リトル・ウォーターなどが有名で、ポールはエルビンたちとUniversity of Chicago Twist Party (1962)で演奏をしていた。学生たち、白人の中に黒人もいる。エルビンが「His is always himself』っていうけど、だから、彼は流されなく、自分の’キャリアをブルース一本で行けたんだと思った。サミー・レイSamuel Julian Lay(黒人)のドラマーは白人のポールに何ができるかと思っていたが、ポールはそれができる人だったと。マディはポールのことが気にって、彼に、ブルースを教えたようだ。特に若者に、白人の若者に、ハーモニカが吹ける若者に。マディもハウリン・ウルフも力強い個性のある人で、ポールもこの二人のようだと。その後ポールがバンドを組んだ時、この力強い個性がそのまま出ていると。ポールは白人ブルースの先駆者だね。
1960年ごろからポール・ロスチャイルド(ジャニス・ドアーズの)がバターのバンドをレコード化したく、ロスチャイルドがアルバート・グロスマン(ディランやPPMのマネージャー)を紹介して、『Born in Chicago』生まれたんだね。マイク・ブルームフィールド(ギター)もロスチャイルドが説得して入ったし。あとはとんとん拍子で、米国で有名になったということだね。バージニアがポールと結婚してくれて、ベトナム戦争の兵役も逃れたしね。当時、1965年ごろはビートルズやフォークの時代だから、The Paul Butterfield Blues Band は歓迎されたね。ニューポート(1956)、モントレー(1967)、ウッドストック(1969)など。この辺は個人的に知ってるんだけど、ディラン、ジョニー、ジミヘン、ジャニス、バード・ビーチボーイズなどが大人気でどのドキュメンタリー映画もフォークとストレートロックが中心に撮影されちゃってるんだよね。
Chapter 2 in My Own Dream ( 1966-1971)
ポールがBilly Davenport(黒人)に言った言葉:You can't go, we won't go. ビリーは米国内を旅行するのに躊躇していた。それをポールが、ビリーが行けなかったら、俺たちも行かないよと。ビリーを保証しただけでなく、自分の音楽には差別意識を一切持ち込んでないのだ。すごい言葉。60年代の初期はまだ、 “separate but equal.”で、白人と有色人種は同じホテルに泊まれなかったり、レストランでも食べられなかったりしている。映画、「グリーン・ブック」や 『夜の大捜査線(1967年製作の映画)IN THE HEAT OF THE NIGHT』をみるとわかりやすい。
マイク・ブルームフィールド(Michael Bernard Bloomfield)はポールと合わないと思っていたと。ポールのハードな個性、人間性、ハートの中もハードと言ってるが強い意志がある人間として描写している。バンドメンバーの誰もがポールのことについて似たようなことを言っている。 ブルースに対する姿勢はプロだし、コマーシャルバンドじゃないし、生半可にやりたいとは思っていないだろうし、なぜ、皆が同じ描写をするんだろう。私なりに考えてみたが、彼の背景でそうなったような気がする。シカゴフィルのフルート吹きが師匠だったから、練習、鍛練、訓練などの特訓があって、強い意志のある人になったのではないかと察する。昔取った杵柄じゃないかな!?