ぱたんぐ

ビーチ・バム まじめに不真面目のぱたんぐのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

タイプライターっていいわよね
欲しくなっちゃうよね普通にね
ガションってして~なガション
詩がどういう立ち位置に当たるのか、日本と他の文化圏ではそれぞれ異なるんだろうけど
5000万$ってハンパでねぇよな~
前にツイッターで「普通でないことを主眼としたもの、大概ダサい」っていうのを見たが、まぁまっとうなご意見である
最終、というか、終止、反消費主義的・反資本主義的な感がありますが、
常々ヒッピー的な有り様を追い求めている中で、ギリギリ孤立するわけでもなく、それをかつて名を馳せた「詩人」であることで、防ぐわけなんですが
そんなことができるのは結局、本人が自他共に認める天才であるが故なんですけど、まぁ結局そういう超人エンタメムービ―に落ち着いてしまっているように思えてしまった
が、
まぁ言っていることはそれなりにその通りでして、な
けど、まぁそういうことをしていても結局は同じ社会に生きざるをえないので、お金という概念から離れることはできんのである
別に私もお金・資本主義を真っ向から反対しているのではなくて、それらが世界の基準になっているのにどうしようもなく、しょうもないって言っているだけなんですけど
すべてがわかりやすい基準だけに淘汰されていく思考に自分を落ち着けたくないだけなんですよね~
まぁ大半の人がそんなことを思って日常を生きているとは到底思えませんが、私からすると、どっかであ~何してんだろうという風に思えてならんのであるね、でも別に慣れるだろうなっていう気もしている
競争というのも一つのわかりやすい基準とルールに身を預けることによって初めて成り立つものなのであって、だから、盛り上がるのだろうなとも思うわけですが、別にそれだけが唯一の盛り上がる手段・おもしろいもの、という訳ではないでしょう?
天才であること・才能があることを、明らかな免罪符として一般の社会生活を免責するのはどうなんでしょうね?別に映画だからそれでいいんですけど
いや、でもここでは~最後に言われたとおりで、金があることが一つの特権性として世界ではもてはやされているが、別にそれだけではないのでは?という意味合いで才能が引き合いに出されているのでは?
主人公が行っている横暴が、実はお金ですべて成し得るのでは…?
それらを我々がどこかで許容しているだけにすぎないのであって、それだけお金を持っていることが社会にとっての一番の免罪符として存在しているのでは…?
その不毛さに苛まれないわけがないのであって、それはエージェントなり弁護士なりがお金を持つこと・また、才能が大衆に認められること(ピュリッツァー賞を受賞すること)によって全く異なる反応を示すことで示唆されてるんでは?
まぁでも、日本はたぶんかなり生きやすい
普通に生きていれば、たぶん他の人のことなど全く考える隙を与えられること無く平生と自己満足だけに浸って生きていける
結局は、どこまで見えないものまで範囲を広げていくことだできるのか・広げたいと思えるのか、という話に過ぎなくて、
仮に目の前で誰かがコケているのを見て、きっと8割の人間は心配するし、半分くらいは大丈夫ですか?って声すらかけるのであろうとおもうが、(見えていない範囲で苦しんでいる人・苦しんでいなくとも気付けば泥沼に陥っている人が、いるのでは?ないし、自分が持っている特権性を想定して〉、見えていなくてももしかしたら世界には、そういう構造にあるのでは?と、いうのをいかに平生と生きてい(け)る社会の中で、想像できるようになるのか、というね~
圧倒的な加害性で生きているが、自由奔放に生きたいところで生きているムーンドッグの方が実は現実を一番直視しているのかもしれないな、とさえ思えてしまうね
一つの箱に閉じこもって生きていることが是とされるような価値観と、(少なくとも私にとっては)おもしろくもない競争に飲み込まれ(ざるを得ない)社会の中でいかにして自分で自分のことを確固たるものとして確立できうるのか、というのが今の自分に課せられているもの、なのであってだな、少なくとも自分の選択なり、価値の判断を他人に預けるべきではないのだろう~ね
根本、別に競争が持つおもしろさ、というのはたぶん本能に沿うもので、アイドルを見てかわいいと、思ってしまうのとほとんど構造的には同じものだろうな、と思います、アイドルとかいくらでも見れるからね~
が、別に競争自体が悪いとしているのではなくて、競争はたぶんかなりの劇薬であって、少なくとも結構な人数がその構造の持つ魅力に魅了されて(しまって)いる、ように見える
たぶん大半の人間はそういう構造に身を投じていること自体、自覚的ではないのかもしれないし、むしろたぶん社会的に勝ち馬・勝ち組とされる人間はそういうものを自明としてかなり戦略的に競争に打ち込んでいるのではなかろうか
で~、私が根本のところで、否定しているのは、競争それ自体というよりも、競争が他から与えられた基準でもって決まること・その順位:勝ち負けがもたらす自己評価なんですわなたぶん
前者はまぁ言うまでもなく、おかしいのは当然であって、少なくとも自分がいっちばん素晴らしいのは言うまでもない事実なのであって、それが他人の価値基準でもって歪められているのが、最初からおかしい・最近は(最近なのかは知りませんが、)認められること・バズることそれ自体が是とされる価値観にあるように思えますけど、別にそれはそれ自体で持って重要なわけでは決してない↓つづく
後者はまんまそれのことを言っていて、競争に身を沈めている(沈め始める)と、それ自体が自分自身を定義しだす気が大いにしている
たぶんそこまでラディカルにこれについて考えているのはあまり居ないのかもしれない:と、いうのも大半の人間はそれなりの承認をそれなりの方法で満たすことによってある種の思考停止の基に日常を日常として消化していくから(結婚・恋愛→身近なパートナーにお互いに「承認」し合う他)ですが、そういう構造に身を置き、どこかで精神を摩耗させながらも、一方で家庭なりでそれらを忘れ(させ)る、みたいなものはもうたぶんそんなに持たない
まぁ結論、別に自分のやっていること・したいことがそれ自体として楽しいもの・希望に溢れたもの・想像性の基でなにか自分にとっての大切なものと合致するんであればそれだけで、全てが解決するので、自らをどんな場所に置いてもどうにかなるんだろう、と思います
日常が日常としてそれ自体がたのしいのであればそれに越したことはないので
ぱたんぐ

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