みずきち

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのみずきちのレビュー・感想・評価

4.8
一言でいうと「悪意のない醜悪さ」。
映画として最高だったのだが、さすがに3時間半が長すぎて疲労困憊。まあその分とっても濃厚なインプットだった。満足。

◆人狼で買つコツは、心をわけて目の前に一生懸命になること?
デニーロもディカプリオの役も、完全なる悪人ではないことが本作の怖いところ。特別な憎悪があるわけでも、サイコパスでもない。
叔父はインディアンを友と思う気持ちも、甥と一族の金銭的繁栄を願う気持ちも、どちらも本物なのである。本当にビジネスとして客観的にお金をどうしたらいいか、そのためには目の前の人間をどう誘導したらいいか、あまりにも自然に特別な悪意もなく動いているだけなのである。まるで人狼をみてるようだった。昼に議論している時は自分も村人であると信じて議論できる人狼が勝ちやすいが、デニーロもディカプリオもまさにそう。どちらの顔も本物なので、良心の呵責も起きず、平気で聖書と神のせいにできるのである。

◆まわりに流されることの普遍性
ディカプリオ演じるアーネストは、作中で一貫してその意思が見えてこない。金に対する欲にまみれているようには見えなかったが、おじを特別恐れている(洗脳されている)様子もなかった。妻はちゃんと愛していたようだったが、そこにいたる特別なエピソードやきっかけも特に見当たらなかった。動機がはっきりしていないのだ。映画としてわかりづらいと思ったが、そのようにしているのはつまり、アーネストの主体性のなさが悲劇に繋がっていることを表していたのかもと途中でわかって、とても怖くなった。その時その時の、目の前のことしか見えていない。無自覚で、流されるがまま。板挟みに苦しんで自我が引き裂かれるようすもなく、自分が何をしているのかもよくわかっていない。妻に投与する薬は、本気でインスリンだと最後まで信じて疑わなかったのである。この盲目さ・周囲に流される軽薄さは、誰にでも起こる普遍的なこと。
試写会後のトークを聞いて、アーネストの小物感にさらに納得した。浅くて頭が弱くてどうしようもないバカなんだと。最後の引きのカットが、結局アーネストの役の小ささを指摘していると。ディカプリオがそんな役を?という宇垣さん質問に、村山さんは「良い役でもないが、スコセッシの映画ならそんな役を演じたいと役者なら思うんじゃないか。」と答える。なるほど。スコセッシガチ勢じゃなかったが、俄然興味が湧いてきて他の作品もすべて観てみようという気になったので、映画鑑賞の幅を広げてくれた今回の機会に感謝。

◆妻モリーは、なにを見ていた?
モリーは最後まで何も言わなかった。けど目はずっと綺麗で、言葉ではなく魂を見透かしてるような感じ。つらい現状に対する心境を言葉にすることもなく、裁判ですべて話した夫を罵るでもなく、ごめんと言った夫を許すでも許さないでもなく。本当のことはきっとわかっていそうなのに。なんでだろうとわからなかったが、トークショーを聞いて、目の前の(最後までどうしようもない)夫を信じようとしてたのかなと聞いて納得。モリーも、善人だったけど少し愚かだったわけだ。
映画としても、モリーの悲痛な叫びや心境吐露を入れてたらさらにボリューミーになっていたと思うので、そこの引き算には後から納得した。


結婚前の2人の会話で、嵐が来てるから窓を閉めようとするアーネストに、モリーは「いいの。嵐はパワーがみなぎってるから、ただ静かに音を聞いてたらいいの。」的なことを言っていて、良い意味でまったく想像の及ばない話をしているとその時は思った。エンドロールは、オセージの祭りの音が終わったらずっと雨や動物の鳴き声やら、自然の音をただずっと受動しているだけだった。もの言わぬネイティブアメリカンの方々の、抗議の気持ちや信条の強さが伝わってくるようだった。
みずきち

みずきち