りょうた

ザ・ピーナッツバター・ファルコンのりょうたのレビュー・感想・評価

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01/29 『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』

シャイア・ラブーフを見たのは、『チャーリーズ・エンジェル/フルスロットル』が最初だった。彼の現状を考えると、あの頃のパーマ頭のあどけなさが残ったバイク少年は人が必ず通ってきた成長の過程にすぎず、もう戻ってこない何かなのではないかとさえ思える。考えてみれば、自分の映画の好みは彼によって決定づけられたと言っても良い。小学生の頃狂ったように見続けていた作品には、ラブーフ演じる車も恋人もいない冴えない青年がいた。冴えないうえにやりたいこともない、とにかくモテたいだけの平和的無軌道な彼の姿は、あの頃の自分にとって非常に身近で現実味のあるものだった。そんな彼の前に宇宙からの訪問者が現れてとんでもなく壮大な戦いに巻き込まれ、最後には誰も持ってないような超かっこいい車と彼女を手に入れる。ド派手で精神的な成長よりも物質的に得をする頭の悪い『E.T』=『トランスフォーマー』、それが小学生の自分には深く突き刺さった。映画は楽しくてなんぼ、派手でなんぼ、頭が悪くてなんぼ。その後より多くの作品を知るほどに「そんなわけはない」と冷静に考えるようになったが、あの頃の自分にはそれで正解だったし、そう考える心の小学生は未だに自分の中にいる。
映画は登場人物の成長をもって幕を閉じることがほとんどだ。だが、例外的に成長しないまま終わる作品もある。『ヤング=アダルト』やそれこそ『トランスフォーマー』も、何かを学んだりはしても人格が変わるようなところまでは行かない(そもそも『トランスフォーマー』にそういったドラマを求めるのが間違いなのだが)。人が生きている中で、人格が変わりうるような劇的な出来事はそう簡単には起きない。平坦に続く生活に不意に訪れる一瞬の光や闇から何かを得て、とにかく生きていく。それがリアルであって、人は一つの出来事でそう簡単に大きく成長はしない。年月を経てゆっくりと形成されていた自己がふとした瞬間に発露する。そんなことの方がより起こり得ることのはずだ。今作『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』も、登場人物たちは成長するようで成長はしない。まるで蛹から出ていくのを待つように、もうすでに全員が下地を持ってそこにいる。あとはきっかけが必要なだけだったのだ。

今作はジョージア州サバンナを南下し、フロリダ州に向かう旅を描いた作品。夢を追う青年、過去に追われ思い出を引きずる男、違和感を感じ停滞していた女。三者が抱えるそれぞれの想いが並走しながら紡がれ、湿地帯の西部劇またはロードムービーの様相を呈す(特にラブーフのキャラを追う漁師2人の描写は、その暴力性含め西部劇を想起させる)。その物語を見事に動かしているのが今作の主要登場人物3人、シャイア・ラブーフ演じる地元の漁師タイラー、ダコタ・ジョンソン演じる看護師・エレノア、そしてザック・ゴッサーゲン演じるザックだ。
タイラーは、今は亡き兄・マークのことを忘れられずにいる。兄から学んだことをしっかり覚えているのに、それを実行できず直情的に行動を起こしてしまう。他人の収穫を平気で盗み、痛めつけられれば仕返しに漁具に火を放つ。その大胆な行動の割には警官を恐れ、いざという時にやり返す力もない。典型的な田舎者で、言ってしまえば卑怯者なのだが、その一言一言には謎の説得力がある。何よりもこのキャラ造形が、現在のシャイア・ラブーフその人にどうしても重なる。実際撮影中にも不祥事を起こした彼だからこそ、虚実入り乱れるほとんど本人そのままの姿を見せることができたのだろう(ラブーフ本人がザック・ゴッサーゲンの言葉でアルコール依存症治療に乗り出したという逸話を聞くと、やはり今作が単にフィクションであるとは断言できない)。しかしそれが本当なら、このキャラの発言には説得力が生まれにくいはずだ。そこで素晴らしいのが、兄・マークの配役である。宣伝でもほとんど触れられていないので、ここは是非実際に見て確かめて頂きたいのだが、“彼”の存在だけで十分な説得力が生まれている。テイラー・シェリダンといいデビッド・エアーといい、彼の扱い方をハリウッドは本当によくわかっているし、何より本人にそれだけの力がある。その一切台詞の無いが強力な存在である彼の理念だからこそ、シャイア・ラブーフの言動にも耳を傾けてしまうのだ。とは言え、画面に映るラブーフ本人の演技も素晴らしい。やさぐれた所作の向こうに垣間見えるぶっきらぼうで粗野だが何故か許せてしまう雰囲気。『トランスフォーマー』の時からその子犬的な外身の愛らしさは変わっていない上に、馬鹿なときは馬鹿に徹する潔さも備わって、これがどうにも憎めない。彼がザックにショットガンの撃ち方を教えたり(因みにそのショットガンの柄に“family first”と書いてあるのも、今作が家族についての物語でもあることを思い出させる)、お酒を教えたり、一緒にスイカを食べたり、というなんでもなくて一見馬鹿な行動の数々が、とんでもなく愛おしくて可笑しくて記憶に残る。今作の中でブルース・ダーン演じる老人の「友人とは自分で選ぶことが出来る家族」という言葉がここでリフレインし、ベタだけどグッとくる友情の形成を演技と映像ですんなり見せてくれる。どんなに私生活で問題のある野郎でも、やはりシャイア・ラブーフが逸材であることは疑いようがない。
看護師・エレノアを演じるダコタ・ジョンソンもいい。『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』の鮮烈で余りにも安っぽいブレイクから数年たち、着実に演技として健全で見ごたえのある人物になってきていることに驚かされる。とても綺麗な女優さんだが、その美貌は現実を逸するタイプの物でなく、とても身近な田舎の知的美人という言葉がぴったりくる。等身大の役という言い方があるが、それを使ってもいいだろう。自分のいるアメリカの湿地帯で、顔を合わせる人間たちの汚らしい内面や不寛容さに嫌気がさしながらも、自分の義務として青年・ザックの面倒を見ようとする。田舎にいるけど田舎者でない、馴染めないけど抜け出す気力もないところを、悟った粗野さ=ラブーフと無知な無垢さ=ザックという混ぜたらちょうどいい2人に救われる。彼女が旅に同行することになる経緯の思い切りの良さと、どうにでもなれという行動力が潔くて物語を停滞させないのもいい。同時にタイラーと同じく別れを経験した人物でもあり、その点において2人の関係性が変化していく様子に違和感が生じなくなっている。実在感と作劇のちょうど中間をとったキャラ造形とキャスティングと言えるだろう。
…と、ハリウッドスター2人について述べてきたが、今作の大本命は何を隠そうダウン症の青年・ザックを演じたザック・ゴッサーゲンだ。本人が実際にダウン症を患っているのに加え、役名も“ザック”と、ラブーフ同様に本人を演じているような構図がより強調されて現れている。彼の正直面倒だけど世話を焼かずにはいられない可愛らしさもそうなのだが、誰よりも自分の夢を信じて疑わない姿は、無垢を超えた神聖さのようなものを感じさせ、それが演技なのか本当の行動なのかの境が曖昧になる。今作のフィクショナルな実在感の中核と形容してもいい。彼が自分の夢に近づけば近づくほど、物語もキャラクターも少しずつ進むべき方向を定めていくのだ。介護施設に閉じ込められ(ここから脱出を計る冒頭のテンポが小気味いい)、自室で大昔のVHSテープを見返し、そこに映るプロレスラー“ソルトウォーター・レッドネック”に師事を仰ぐことを夢見続けるザック。映画が夢を持つ若者を否定することはまずなく、彼は同室の老人(ブルース・ダーン)の力を借りて脱出するのだが、ここが非常に馬鹿かつ象徴的だ。窓に掛けられた鉄格子を歪め、体中にクリームを塗って滑りをよくし、狭い隙間から外界に裸一貫で飛び出す。まさしく“出産”の光景そのままだ。ここでザックは生まれ直し、中盤で盲目の老人に“洗礼”を受ける。非常に胡散臭い老人のなんちゃって洗礼で、老人も「いわゆる洗礼とは違う」と明言しているから、実際は意味がない。しかしこのザックの経験する出産と洗礼が、何故今作のタイトルが“ピーナッツバター・ファルコン”なのかが分かった時に一本筋を通す。ザックの視点からすれば、これは“ヒーロー誕生譚”、生まれ変わりの物語なのだ。
半ば諦めながらもザックの夢の実現に手を貸すタイラーとエレノアは、彼=生まれ変わりの象徴を中心に据えて再生していく。タイラーはザックに兄の教えを伝えることで自らもそれを反芻し、自分の中にある成長しきった自分を表に出して、兄の死を乗り越えて自分が兄になる。エレノアは閉塞した状況から、自ら選んだ家族とともに突破口を見つけ新天地へと向かう。ザックがヒーローになった時、他の2人は蛹を破って蝶になるのだ。非常に馬鹿馬鹿しいが、偏見にさらされてきた人間が逆襲するカタルシスに溢れ、報いを受ける暴力性が同居する見せ場を経て、中盤でザックが何気なく言う一言がよみがえり救済が訪れる。喉に引っ掛かるようなものがないストレートな感動があり、非常にノリのいいテンポを保ったまま幕を閉じる上品さは、流石SXSWで観客賞を獲っただけある。
もちろん突っ込もうと思えばいくらでもその余地はあるだろう。しかし今作は、ザック・ゴッサーゲンと監督たちの個人的出会いから生まれた物語であり、この実現そのものが映画の存在意義の一端を証明したと言ってもいいこの素晴らしい事実は変えようがない。キャラクターが生き生きと存在することで物語が進む人間ドラマの手本とでもいえる作品。しかし偉ぶらず高尚にならず、馬鹿なところは徹底して馬鹿に、ノリよく軽くしかし意味深いバランスを保ち続ける。現実とフィクションが境界線の上で遊ぶ非常に変わった、しかし愛らしい一作だ。


追記: 
今作の最大のサプライズについて書いておく。終盤(本当は序盤)、ザックが信奉するプロレスラー・“ソルトウォーター・レッドネック”が姿を見せるのだが、彼を演じている俳優の予期しない怪演には微笑みが絶えなかった。これもチラシなどで大きく宣伝されていないので敢えて明言はしないが、あの人の漢気には魅せられた。老境のプロレスラーが、ザックの登場で微かに熱を取り戻す姿の痛々しさ込みの愛らしさと可愛さがさく裂している。彼が絡むという点でも前述の見せ場は見事だ。
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