りょうた

アルプススタンドのはしの方のりょうたのレビュー・感想・評価

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09/04 『アルプススタンドのはしの方』

あの時こうすれば、これを続けていれば、それを始めていれば…枚挙にいとまがないほど、後悔は後乗せで積み重なっていく。自分の至らなさ、方向転換のタイミングをどこで見つけられるかが、そうしたもどかしさから解放されるきっかけとなるが、それを見つけた頃にはやはり後悔の山は相当な高さになっているのだ。学生時代にそのタイミングを掴んでいた人を友人に何人か知っているが、自分は心底そういう人がうらやましい。学生時代というのは、あとから考えると、あとから考えないと分からないが、非常にもどかしい時間なのである。
映画でそうした時間を思い出すのは、時として辛い時間になる。子供だったからと友人や家族に慰められても、起こってしまったことに対する責任や謝罪を果たすにはもう遅すぎる。大学院進学も決まり、社会への進出が近づくにつれて、改めてそうしたものが自分の幼さでなく本質から来るものではないか、努力と継続だけでは克服できないのかと、どうしようもなくぼんやりとした不安を抱く。だからこそ、今作は響いた。
演劇的らしさと、少しの映画らしさ。すなわち、言うべきことを言葉にし、映像がそれを補う。今作の特別なバランスの作りが、多くの人に自分と同じ感覚を覚えさせたのではないだろうか。

原作は、兵庫県立東播磨高等学校演劇部顧問・籔博晶さんによる同名の戯曲。正規部員が4名だった同部活の部員に向けて用意され、全国高等学校演劇大会にて最優秀賞を獲得した作品を、2019年に今作の脚本家・奥村徹也さんの演出によって舞台化し、主要役者陣の続投と城定秀夫監督の起用によって映画化されたのが今作となる。映画化される前の時点で相当な経歴を持つ作品で、映像化に際しての難しさとプレッシャーは尋常ではなかっただろう。
ただ鑑賞していただければわかるが、原作の良さを理解している奥村さんと、低予算の作品における最大効果を知っている城定監督の組み合わせにより、唯一無二の素晴らしい作品になっている。公開館数が少なくなっている今だからこそ、まずはどんな手を使ってでも(感染症に対する安全策を取ったうえで)見ていただきたい。ほんとにこんな批評もどきを読んでる時間があったら行ってください!

演劇の体裁が色濃く残る今作において、最も映画的と言えるのがメインタイトルまでの流れだ。最初にある人物の挫折の瞬間を振り返り、この出来事が象徴する失敗と諦めを克服することを主軸として提示しながら、それぞれに不安や後悔を抱えた若者たちが舞台となるアルプススタンドの端へ集まる様子を見せていく。演劇部の安田(小野莉奈さん)と田宮(西本まりんさん)を中心とする想いの渦に、ともにマウンドに想いがある元野球部の藤野(平井亜門さん)と帰宅部の宮下(中村守里さん)が足取り重く合流していく様子は、球場全体の高揚感に反する冷めた感触がある。この彼らと周囲との温度差を見せることで、終盤の盛り上がりへ向けた準備を整える、ワクワクするオープニングだ。
既に試合は5回裏を迎え、そのタイミングで集まった主人公たちは、周りの盛り上がりを引いて見ている。特にベンチに座っている安田・田宮・藤野の会話はそれを端的に表現していて、高校時代を経験している人なら共感できる部分も多いはずだ。「野球部ばかりなんで優遇されるのか」「野球部ってなんか偉そう」と、炎天下に球場に引きずり出されたことの嫌味も含めた言葉の数々だが、中でもある台詞は印象深く残る。
「外野って、ミスしたときだけ目立つよね」
この台詞が入ることで、そこまで交わされてきた会話やその後の言動にも、少しの重みが加わってくる。部活動にまつわる失敗、個人的につけた諦め、何かをとられたという失望、とキャラそれぞれに抱える問題は微妙に違うが、その点において彼らが外野であることに変わりはない。序盤は他の登場人物との目立った言葉のやり取りがない宮下も、この台詞によって他の三人と繋がり、またこの言葉に同意する元野球部の藤野も実際の想いの裏返しとしての痛々しさを見せている。何気ない会話の中でも、目立った説明なしに、まず最初の時点での登場人物の立場をさりげなくわからせてくれるから、やはり脚本が上手い。主人公四人の会話以外にも、田宮の過度な気遣いや、「おーいお茶」「犠牲フライ」「ファウルボール」など、行動と台詞の積み重ねを丁寧に置き、場面によって笑いや関係性の変化として最大限の効果を上げているのもやはり上手い。
序盤だけでも前振り含めた会話の面白さに引き込まれるが、何より感心したのは中盤からの視点の移動だ。観客が野球部への嫌味や会話で外野の四人に共感し同調しだしていると、そこに応援に来た教師・厚木(目次立樹さん)が現れる。ここで観客は感覚が主人公たちと一致しているため、厚木の精神論じみていい話っぽい言動が煙たくてしょうがない。うるさいし、言うことはちょくちょく変わる。部活動顧問でも根っからの体育会系気質が、四人に同調している観客にとってウザくないわけがない。しかし、あるタイミングでふとその厚木が作品の視点の中心に来る(ここでのトイレを巡る会話と、背景にちらっと映る標識が最高に笑いを誘う)。すると、彼の不器用にもほどがある行動の動機と、現実と理想の間の落差に抱く複雑な心境が露わになる。今作の公開直後、Twitterなどで比較対象としてチラホラ名前が挙がっていた『桐島、部活やめるってよ』では、厚木のような教師は理解のない人物としてそもそも背景でしかなく、ほとんどの場面で物語から除外されていた。もちろん、互いのフィクションラインの微妙な違いや、作品の出自の違いから、同作と今作を単純に比べることは出来ない。ただし、今作における厚木=教師の描き方は、公平さという面においても同作より少し成熟した部分ではないかとさえ感じさせる。主人公たちと同様に何かを諦め、また別の場所から真剣に取り組む姿は、終盤の主人公たちの再起に繋がる描写であると同時に、実世界で生きる自分たちに大きな意味を感じさせてくれる。
視点の移動はこれだけではない。厚木に移った視点から、次に見えてくるのが吹奏楽部だ。積極的に野球部の応援をし、主人公四人よりも圧倒的に青春を謳歌している“主役”に間違いない久住(黒木ひかりさん)・進藤(平井珠生さん)・理崎(山川琉華さん)の三人。劇中でも嫌味なほど強調されているように、スクールカーストの上位にいる生徒たちで、厚木の目からすれば自分と同じ応援の中核に見えているだろう。しかし、視点が厚木から彼女たち、とくに部長である久住に視点が移ると、やはり実際はそうでもないことが分かる。LINEの画面や、飲み物の受け渡しだったりと、確実に彼女が抱える問題にも光を当てる。こうした吹奏楽部に関する描写は、今作の戯曲からの最大の変更点の一つであり、実のところ欠点も少なくない。劇中で主人公たちをバカにする言動が目立つ進藤・理崎の感情の流れについては、あまりに都合よく救済に過ぎる。ただそのような副作用があるにしても、外野にいる(いると思っている)生徒、それを見る主役たち、彼らを奮い立てる教師、その全員に暖かい視線を向け、一面的な偏った側のみの主張と成長を避けたことで、今作のより大きく普遍的な感動が生まれたのだろう。改変によって生まれた周到で映画的な演出である。
主人公四人から厚木、厚木から吹奏楽部と、視点が徐々にマウンドの中への想いが強い方へ近づいていき、最後にその想いを同じくするある人物を通って、舞台は再びアルプススタンドの端っこに戻ってくる。ここまでの間で交わされた会話、明らかになった関係性、何気ない描写の一つ一つによって、我々観客には登場人物たちの心の在り方がはっきりと見えている。そして驚くべきことに、本来見えないはずの人物の姿すら見え始めている。
元野球部の藤野、吹奏楽部部長の久住、そして秀才・宮下の言葉から、野球部エース・園田の姿が思い浮かぶ。選手としても生徒としても、申し分ない学生としての時間を過ごしている、本来なら主人公であるはずの彼だが、今作では実体のない空虚な中心として観客に提示されている。ちょうど『桐島~』のバレーボール部エース・桐島と同じ役割が与えられ、先に述べた三人(安田・田宮の演劇部以外の面々)は彼を中心とする磁場の周りをまわっているように見えるし、終盤では彼の活躍が登場人物たちの重い腰を上げさせ、一体感と希望の口火を切って見せてくれる。序盤での野球部あるあるで落ちた株が、一気に回復されていく瞬間でもあり、やはり今作の全方面への肯定を強く感じさせる。
だが、今作を見た誰しもが、これから見る誰もが、最も思い入れ見えない姿に全てを託してしまうのが、“矢野”である。
野球部員だが万年補欠、マウンドに立ったこともないが人一倍練習に身を入れて取り組む矢野を、部員同士だった藤野が紹介する。スイングの下手さも同じ、練習してきた時間も同じ。残った矢野と退部した藤野は、ある意味で表裏一体の関係のキャラクターだ。そんな外野であるはずの矢野が劇中でどんな活躍を“見せて”くれるのか、それは是非劇場で確かめていただきたい。この瞬間に至るまでに飛び交った全ての弱音、全ての鬱屈と、全ての後悔が、彼を通して浄化されていく気分だ。登場人物の台詞が矢野の描写を補助し、一挙手一投足が観客の脳裏に浮かび上がる。確かにその場面は台詞が多く、非常に演劇的な見せ場だ。だとしても、言葉の力と役者陣の好演が、虚無から有を生むという本来ありえない現象を成立させ、最良で最高の瞬間を演出している。自分の行動に楽しさを見出した若者の力強い打球に、アルプススタンドと客席にいる全ての人が救われる。その救いこそが今作の白眉、最大の魅力である。

青春は、最良であり最悪でもある多面的なもの。終わりが来たとしても、何かを学んでいれば、方向を見失わなければ、先には希望が待っている。少し苦く、でも現実的で、それでもなお清々しい終幕を迎えた後、今作はそのことをもう一度思い出させてくれる。戯曲からの大きな変更点の一つがここに来るのだが、ここも是非自分の目で確かめてほしい。晴天下から一転夜に変わり、青春という一つの諦めが起こった後に集まった諦めなかった人々の姿。姿なき主人公が放った送りバントが、いかに主人公たちに力を与えたのか。
元の戯曲を愛する人には、もしかしたら蛇足に思えるかもしれない。それでもこの希望と暖かさは、見た人にとって大切なものになり得る。自分は受け取った側として、この結末を全力で肯定したい。

誰しもが矢野にはなれない。それでも、諦めなかった者だけがその機会を得る。若者たちが、成功は別として、その諦めなさを思い出す物語。演劇的な箱庭感と、映画的なファンタジー性、根拠のない頑張りの素晴らしさは、劇場という場でこそ映える。

追記:
他にも細かい部分の描写(画面の中央を横切ったり、背景を歩いている生徒が意味を持っていたり)や、限定された画で状況を伝える音と吹奏楽部を活用した音楽演出など、工夫を凝らした見事な瞬間が連続している。スタッフの皆さんには頭が上がらない。
もちろん役者陣の好演も素晴らしく、小野莉奈さん・西本まりんさん・中村守里さんの相性に加え、そこに後から参加した平井亜門さんのはまり方も違和感なく最高の協調を見せてくれる。厚木役の目次立樹さんも、しゃべりと無言のバランスによって極端な感情を表現し魅せてくれた。
自分は今作を公開すぐに見ることが出来ず、全国規模での公開が終わったタイミングでの鑑賞となってしまった。この拙い文章が、今作の魅力とそれを支えた製作陣・役者陣の皆さんへの労い、そして何よりもできるだけ多くの人が今作を鑑賞するきっかけとなれば、遅れてでも鑑賞した甲斐がある。
長々と書いてしまったが、とにかくいい作品だ。是非公開館を調べて、駆け付けてください。
りょうた

りょうた