教授

機動戦士ガンダム 逆襲のシャアの教授のレビュー・感想・評価

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「ガンダム」はシリーズを拡大せずに、ここで終わればまだ良かったのに、と思う。
アムロ・レイ(声:古谷徹)とシャア・アズナブル(声:池田秀一)の最終決戦。

当時としては、非常に「エポック」な作品だと思う。
後続への作品の影響ということ計り知れない。
ただその「影響」された文化や作品群に対しての関心が僕にない為か、あるいは富野由悠季監督の作家性が合わないのかはわからないが割と淡々と観てしまったし、2時間の長編映画としては、物足りない。

本作はこれまでのテレビシリーズの流れを一応は踏襲し、シャア側の史観で観るのがわかりやすいのだが、ザビ家への復讐心で画策していた青年期が1作目。
そして、アムロとの出会いなどで「ニュータイプの可能性」が人間の進化への希望と信じ、閉鎖的で保守的な「エリート」としてのティターンズとの戦いを繰り広げていたのが2作目。
その次には彼不在で起きた「第一次ネオ・ジオン抗争」の顛末で、ついに地球を救うには「独裁しかない」あるいは「地球人類の殲滅しかない」と絶望した、というのが本作の立ち位置。

冷静にこれまでの物語を追えば、なかなか困った人であるシャアの幼稚さ、劇中でも「純粋」と言及されるが、そういった理念に真っ直ぐ狂ってしまう実務者というのはタチが悪い。
己の未熟さへの自省が皆無なので、本作のような人物に結実してしまうという当然の成り行きは納得感が強い。

これに対して、その未熟さへの合わせ鏡がアムロになるわけだが、現代となっては、これもまた納得はするが、それ以上の感慨は湧いてこない。

ただその愚かさは拭い切れない「普通の人たち」の可能性を信じきれるかどうかの言い分の違いをひたすら見せつけられているということを強く感じる。

実際、富野監督自体も「描かずにはいられない」鬱憤のようなものが溢れていたようではあるし、一方でそれをただただ肉声として吐露しているだけという自己反省もあるような作品で、正直「その通り」だと思う。

用意された議論も、用意された回答も、それが既に用意されたものでしかない以上、映画としての「スリリングさ」を感じるのは難しい。
生まれるべくして生まれた作品の「後始末」に終始する展開は納得はしても心は踊らない。

シャアである富野監督は、自身が生み出したガンダムに対しての受け取られ方も含めて、独裁者になるほかはなかっただろうし、破壊するしかなかったのだろう。
そして、その「破壊」によるペシミズムが、良くないことも理解してもうひとりの自分であるアムロに反論させる。
そしてその先には白々しいハッピーエンドを用意するというニヒリズムつきで。

ということが今になってわかるが。
今の自分にとっては、そういう作品に何かを感じるために映画を観ているわけではないという気分にはなった。
ただ、2時間の映画である、ことが語る上ではテレビシリーズとは違って語りやすいということは救い。
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