すえ

オオカミの家のすえのレビュー・感想・評価

オオカミの家(2018年製作の映画)
5.0
記録

何故か泣いてしまっていた、怖くて怖くて仕方がなかった。手が震え、鼓動が早くなり、凡そ平常心で観れなかった、作品の狂気にあてられてしまった。暫く間を空けてようやっと平静を保てるようになった。ただ、いつも通りに戻ったわけでは無い、二度と戻れなくなっただけだ。そこに在るのは、自分でいて、自分じゃない。オオカミでも、マリアでも、何者でもない。どこにも足が着いていない。あの虚構の世界に、あの家に、閉じ込められてしまった。今電車に揺られる自分は、きっと偽物だ。

怖くて、初めて劇場のスクリーンから目を背けてしまった、それでもマリアは網膜に焼き付いたまま目の前に浮かび上がってくる。逃げられなかった、それは今も変わらない。心の中で形を変え、消えたり燃えたりしながら唄を口ずさんでいる。まるで自分の心があの家になったようで、苦しい。オオカミが脈打つ心臓に息をハーッと吹きかけ、舌なめずりしている。ずっと掴まれているような感覚だ。

ずっと怖い、現実が崩れ落ちそうで。自分の目の前に映るものから現実味が剥がれ落とされ、そこに残るのは虚構だけだ。あの世界と、今自分が立つここにはどれ程の差異があるだろうか。遠い、全く別の世界のようでもあるし、自分の心そのもの、一番近くにあるもののような気もする。
心を抉られ、元あった場所が間欠泉となり、黒い液体がドバドバと溢れ出てくる。今、確かにペドロとアナになったのだ。テーブルに広がる炎は熱く、服が、手が、髪が燃える。死んだ時、初めてこの世界のドアを開けられるのかもしれない。扉と窓を閉め切った心で考える。

鑑賞中に吐きたくなったのは初めてだった、流石に理性が働いてそこに至るまではいかなかったが。嘔吐感は腹の底に溜まり、胃を食い破り、蛆虫のように身体の中を這い回る。そして毛穴から湧き出し、それは枝となり木となり森となり、『オオカミの家』の一部となった。動きたくとも動けない、ずっとあの目で見つめられ、睨まれている。また吐きそうになる。

以前タルコフスキーの『ノスタルジア』を鑑賞した時の、映画が身体に入り込み、もはや自分が自分ではなくなった感覚だった。ただ、その時よりももっと気持ち悪い。身体に、心にずっと異物がいる。追い出したくても追い出せない、そういうものなのだ。これからはそれを抱えながら、違う自分として生きていくしかないのだ。

見えなかったものが見えるようになってしまった、そんな非現実的で馬鹿な話はありゃしない。けれども、見えていたものが見えなくなることは有り得る。というよりも、何が見えていたのか分からなくなると言った方が良いのかもしれない。そういうことは実際あって、それが今の自分だ。観る前と観た後では全く違う自分なのだから、それも当たり前のことなのかもしれないが。

アニメーションがどうだとか、映画としてどうだとか、何も分からない。ただ怖かった、怖くて震えていた。子ブタのように、マリアのように、オオカミを恐れていた。でもその獣は一番近くにいるのかもしれない、そうして自分が怖くなる。もう逃げられない。

今日という日から、恐怖で眠ることが出来るかが分からない。オオカミがこの家を吹き飛ばすことを願って、静かに目を瞑るしかない。

兎に角、好きか嫌いかと言われても分からない。好きだし嫌い、大好きだし大嫌い、もう二度と観たくない。しかし人生を変えた一本であるのは間違いない、もはや今の自分は別人なのだから。

2023,275本目(劇場40本目) 10/19 シネリーブル梅田
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