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チベット ケサル大王伝 最後の語り部たちのYAJのレビュー・感想・評価

3.0
【神授型】

 我が国に例えるなら稗田阿礼、あるいは『平家物語』を弾き語る琵琶法師のような存在。チベットでは未だ「語り部」が存在し、ケサル大王伝という民族伝承の叙事詩を語り継ぐ。
 世界的にも文献、研究がなされていないこの文化を、4000mの高地にカメラを持ち込んで取材したドキュメンタリーが本作品。実に興味深い内容だった。

 チベット全土でわずか20名ほどしか残っていないと言われる語り部たち。語り部となる経緯は、夢の中にケサルや山神が降りてきて「ケサル語り」を命じられ、目覚めたときには滔々と物語を語りだすという、神がかった存在だ。語り部たちはカム語等、チベットの方言、古語を使う。若い世代は理解できない言葉だという。
 そうした神授型という謎めいた語り部たちの紹介と並行し、中国政府による大規模開発によって、近代化の波濤がチベット高原にも押し寄せる様も描かれる。

 遊牧民は強制的に町へ下ろされ(生態移民)、集団定住化による環境汚染なども進む。隔絶されていたことで保たれていた美しさ、稀有な文化が、その基盤ごと崩れつつある現状が痛ましい。高速道路か何かの建設が進む工事現場の脇を、五体投地で進む信者の姿は実にシュールな絵面だった。
 抵抗する動きとして、第1回ケサル研究会の開催や、ケサル大王伝の50巻にも及ぶ「定本」が完成される。文書化され世界から忘れ去られる危機は回避できたのかもしれないが、それは「語り部」の存在価値を危うくする諸刃の剣。

 劇中、「もうケサルは(夢の中に)降りて来ない、神授型語り部はもう誕生しない」といったナレーションだったか、誰かの言葉にも危機感が滲んでいた。

 面白いお話を知ることができた。 チベットもいつの日か訪れてみたい場所。



(ネタバレ、特になし)



 この日は封切2日目で、トークショーは作品の字幕翻訳の協力者ロディギャツオさん・・・だけと思っていたら、大谷寿一監督も一緒にご登壇。撮影の苦労話から、地図をスクリーンに投影しながらのチベット地政学的トークが非常に興味深かった。

 チベットって「チベット自治区」だけじゃないのですね~。「ウ・ツァン」「アムド」「カム」という3地区に分かれ、「アムド」は青海省、甘粛省を、「カム」は四川省、青海省、雲南省の一部を含む(メモメモ)。
 さらにはいわゆる「自治区」より東(主にアムドやカムと言われる地方)に住むチベット人のほうが6:4くらいの割合で多いんだそうな。へ~x3。

 劇中、若いチベット人は共通語としての中国語を学ばされる(プゥトンホア/普通語を、ということでしょうね)という近代化、生態移民化の様子も映る。ケサル王伝を語る言葉どころか3地区で話される方言も、やがてチベット語というものも失われていくのでしょう。

 折しも先週あたりに「ロシアNOW」で「2週間に、ひとつ、世界で話されている言語が消えている。」という見出しで、ロシア領域内でも少数民族の話す言葉が消えていく実情レポートがあった。

 創元社の“ことば”シリーズのひとつ『なくなりそうな世界のことば』は我が家の「隠」思黙考用、トイレの常備本だが、鑑賞後にまた改めてパラパラとページをくってみたりした。
https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=1688

 失われていく民族、言語、文化の話は、非常に難しい問題であることは百も承知。部外者がノスタルジックな感傷だけでその延命を願い、策を弄することのほうがむしろ罪である気さえする。なくならないで欲しいと願うのは簡単だが、そのために彼らを旧世界の中に留めておくという選択権は誰が握っているものでもないと思うところ。

 トークショーのQA。各地方の語り部ごとに喋る内容、節回しは異なるのか?という問いに、今は異なるが「定本」が出来たことで統一されてしまう危機、あるいは定本と違う言い回しを「間違い」としてしまう狭い料簡が罷り通ることを大谷監督も危惧されていた。

 私はちょっとイヂワルな質問と思いつつも、ご両名に「夢のお告げで喋り出す神授型という成り立ちを信じますか?」と問うてみた。
 チベット人であるロディギャツオさんは(日本在住10年、日本で中学から入り直し大学まで出ている)

「日本に居て、そういう話を聞くと自分でも“何言ってんの?”って思いますが、あの場所、あの雰囲気、あの空気感の中で暮らしていると、“あり得る”と思えるのです」

 と答えてくれた。
 あの場所、あの空気感は、おそらくあと数十年で消えてしまうのでしょう。変わりゆく前に、無くなる前に見ておきたい場所がまた増えてしまった。
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