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王国(あるいはその家について)のmotoのレビュー・感想・評価

4.1
取調室でのやり取りから始まり、気づけば台本の読み合わせ、リハーサル、そして本番?の間を反復する。(この映画の中の全てが本番なのでもあるが)
どの部分からがこの作品の中におけるフィクションなのかが最初は掴めないまま進んでいく。

台本読みで言葉を身体に刷り込み、登場人物の演技(またはそのパーソナリティに憑依する)へと移行して行くうちに、徐々に表情や、口調の抑揚、さらには動作などが加わり、
「その人物像」が肉付けされて行く。そしてそれがビビッドに浮かび上がってくることがわかることに驚きと同時に怖さを覚える。それはフィクショナルな人物が、リアリティを持って現前しだすからであり、そこに不気味さを覚える。
澁谷麻美さんはそれを完璧に体現しており、台詞読みの無表情さから一転、視線や語気などに亜希が憑依し出すことがわかる。特に視線については圧巻であった。
カメラワークも絶妙で、人物像を浮かび上がらせる途中の作業である素描の状態の揺れをうまく表現できているし、定点でのスタティックな映像で、台詞読みの演者の内部のざわめきのようなものを逆説的に感じ取ることもでき、静と動を有効的に使い分けているように思った。

本作では演者の身体に「人物像」を浮かび上がらせるような、刷り込みの作業のプロセスを見ることもできれば、これは逆に鑑賞者の刷り込みも同時に果たしていると思った。台詞はなんどもなんども反復される、ただ、その都度、映像、演者の動作、語気などが異なるために、台詞のイメージは絶えず上書きされて行く。否、もしくはその前のイメージ群と合成されて行くような感もあった。ただ、この鑑賞者におきた刷り込み作用に、果たしてどのような効果が生じるのか、鑑賞者の感じ方にどのような影響をもたらすのかについては自分でもなかなか自分なりの答えを出せない。少なくとも、この言葉の反復は演者と鑑賞者の双方向に対して影響を及ぼしたということは確かなのだが…。もう少し時間をかけて考えてみたい。

この作品が気になってしまった理由として、この作品のタイトル「王国」にある。強烈な言葉だ。王国という言葉の持つ、領域としての絶対性、そして求心性に吸い込まれたのかもしれない。
作中では「暗号回線」という言葉が出てくる。「言葉」に代わる、二者の間で生じる共通意識のようなものなのではないかと思う。直人、野土香夫妻の家族は温度・湿度までコントロールされた行き届いた空間で、なるべく「言葉」を表に出すというルールを課している。まさに「王国」の「法律」「法令」そのものである。直人は、そのようにした理由は「家」に「ただ住んでいるだけ、同居しているだけ」の状態になってしまうことへの危惧があったからである。ただ、むしろ全てを表に召喚することで、それらが音、温度、湿度といった物理的性質、または肉体を持ってしまうことによって、その身体から逃れられないような「息苦しさ」を感じさせてしまうのである。そう考えてみるとこれはまさに直人が作り出した、身体を隷属させた王国のようなものなのかもしれない。「表」に出せば、あらゆるものも支配下におけ、管理することができるからだ。
果たして「ただ住んでいるだけ」という状態にあるのはどちらの方なのだろうか。中学校の教師、という(美術の教師ではあるのだが)トップダウン的な構造の上にある立場という設定も何か暗示的であるような気もする。教室の空間的な配置はまさにその内部構造を表に出したようなものではないだろうか。直人は物理的な領土を築くことで、次第に精神的にも働きかけようとする無意識的な向きがあったのではないだろうかと勘ぐる。むしろそのやり方でしか、王国は築けなかったのかもしれない。

「王国」への入り口となるのは「合言葉」であり、歌であった。これについてのやりとりも面白かった。合言葉などいらずに、顔を見ればいい、顔が見えないときは声を聞けばいい、では合言葉はその声を聞くためのものだ、歌を歌おう。歌、単純に意味を示すような「言葉」ではなく、それは抑揚であり、意識に働きかける。意識(ウラ)と言葉(オモテ)の間にあるような存在であるために、歌を口ずさむシーンはなんども現れる。

このように考えれば物理的な空間と身体、とそれに対する意識について、この作品の方法論にも通底する部分はある。言葉や身体といったオモテの部分の反復を行うことで、サブリミナル効果のように、無意識的にウラに刷り込ませる。歌が共通意識(「王国」)への鍵であるように、台詞の刷り込みもウラ(無意識という内部)へのアクセスキーのようなものであるのかもしれない。論理的に色々自己矛盾している部分も多いのかもしれないが、その矛盾のようなものがむしろ自分を納得させている。面白い。

作品におけるディテールも色々と気になり、「すごいな」と何度もうなった。鏡によって稽古中の演者の身体を二つの角度から映り込ませることを何度かやっていたのだが、ある時には撮影カメラも鏡の反射によって写り込んでしまう。それが劇(=フィクション)に入る前の、現実の状態、憑依する前の状態であることを暗示しようとしたのかもしれないし、否、むしろ全てフィクションではないのか?などと、一つのカメラが写り込んでしまったことによって錯乱が生じる。直人・野土香夫妻と亜希という組み合わせのはずが、あるリハーサルの時は直人・亜希が隣り合わせで座っていた、など、もはや不気味である。説明できない。亜希・野土香のドライブのシーンで、背景となる空間が異なる。暗がりのなかでピンボケの亜希がその前で運転している野土香に視線を向けている。明るみのなかでは気づかなかったその視線と表情に不気味さを覚える。例えば、この明暗の空間が同時に存在しているとしたら、後ろに座っている、ピンボケた亜希は幽霊ではないだろうか?と意味のない想像すらもしてしまう。
つまり、カメラの位置を変える、演者の配置を変える、ということは果たしてそれぞれの場合が並立していることなのか、と問うこともできてしまう。先ほど合成、と言ったが、まさにそうで、全てが起こりうる事象であると、それを意識の中では同時存在させることができるわけであり、それが面白い。映像の反復により演者の内部に「空間」(劇中の「王国」と呼ぶにふさわしいものであるか分かりかねるのであえて外した)を作るのであれば、その反復とずらしの効果による刷り込みで、鑑賞者と映像の間にも「空間」を築き上げられたのかもしれない、と考えてみる。後者については、個人的には自然発生してしまったものなのかもしれない、と解釈してみる。むしろその方がより、不気味であろう。
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