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ワン・セカンド 永遠の24フレームのbluetokyoのレビュー・感想・評価

2.4
2020年製作とあるけど、やはり、チャン・イーモウ監督、冬季オリンピックの演出総監督で多忙だったのかもしれない。
初恋のきた道、HERO(昔のしか知らないけど)みたいな、見る人の感情を大きく揺さぶるような斬新な映像はなかったな。そういうのがないと、こんなにも凡庸な作品になってしまうものなのか。
ジャ・ジャンクー監督の「プラットフォーム」のような圧倒的な臨場感もないし。
映画館での脱走者取り押さえ事件の二年後、ヒロインが、初恋のきた道そのままのかわいさになっている。やっぱり、チャン・イーモウ監督の好みなのかね。
それがなんで、二年前のシーン(こちらが主だ)は、ずっと山賊みたいな身なりなんだろう。なんかの罰ゲームなんだろうか。意味がわからない。あるいは、ヒロイン役が、あまりに演技力がなさすぎるので、あえて山賊みたいな格好にしたのだろうか。山賊少女なのに、歯はホワイトニングで真っ白なのだけど。
ニュース映像に一瞬映る娘の映像(荷物を運んでいるのだが、そんなことをやらされているのは、そもそも逃亡者が強制収容所に入れられたからである。逃亡者は後で気付く)を見るために強制収容所から脱走してきた男、やっと、フィルムを見付けたと思ったら、山賊少女に盗まれる。山賊少女から奪い返したと思ったら、フィルムを積んだバイクは出発したばかり(輸送する係の人は確認はしないのだろうな)。
このフィルムを輸送しているのが、ファン映写技師の息子みたい。そいつが、バイクが壊れたときに、丸太かなんか運んでいる車にフィルムを乗せてしまう。それで、フィルムを収めている缶が開いてしまい、フィルムが飛び出て、地面を引きずりながら運んでしまったのだ。
そのオチが、子どものころ、フィルムの洗浄液を誤って飲んでしまい、頭(高熱で?)がおかしくなってしまったから、という、思い付きのようなオチだ。
面白いのが、フィルムを盗んだ山賊少女が逃亡者に追い付かれたとき、半分に分けようと交渉するのだ。最初はわからなかったが、あとでわかってくる。フィルムを寸切りにして、張り合わせ、電球の傘にするためなのだ(彼女には当時の映画フィルムはそれぐらいの価値しかない)。また、逃亡者が山賊少女に、一緒に映画を見ようと誘うのだが、彼女は見ない。それどころか、あんまり他の子どもたちも見に来てはいない。大人ばかりが、わー、映画だ、映画だ、と大盛り上がりなのである。
あの当時の子どもにとって、当時の映画は、もう時代遅れの退屈なものでしかなかったのだろう。それで、それでは、自分が、面白い映画を作ろう、ということをチャン・イーモウ監督は言いたかったのだろうか。
逃亡者はファン映写技師の計らいで、ニュース映像を見ることが出来たわけだが、それで終わりではない。せっかく、このまま、おとなしく出て行けば、ファン映写技師も、それ以上、ことを荒立てたりはしなかったはずだ。それなのに、何度も見たいと言い出すのだ。だから、ファン映写技師も、思わずチクってしまいたくなったのだろう(やりとりが浅過ぎる)。
砂漠の中を行き暮れて、どうしようかと思ったらトラックがやってくる。すかさず、逃亡者は乗せてもらうわけだが、しばらく行くと、山賊少女もいる。彼女も乗せてやる。逃亡者は、彼女はおれの娘で家出したんだ、とかウソを言いながら。親子ではないのだが、山賊少女は自分の父親の話を始める。飲んだくれで、よそで女を作ってだっけ、そんな話をする。かなりエモーショナルな感情的に盛り上がるシーンなのに、なにもない。どうしちゃったのだろう。
その前、フィルムを取り戻して歩く逃亡者の後ろを山賊少女が歩く。途中ででかい骨を拾い上げて、やおらその骨で、逃亡者の頭を殴り、フィルムを奪い返すのだ。なんか幼稚なマンガみたいな演出だな。そもそもなんで牛だかなんだかわからない生き物の骨が転がっているのだろう。たぶん、それだけ厳しい砂漠だと言いたかったのだろう。
その割には、みな砂漠を徒歩で行き来しているのだ。トラックの運転手も、このまま歩いていたら野垂れ死にだな、などと言い出すが、そこまで、とくに、道に迷わず、歩いてきたのだから、それほどの距離ではないはずだ。
その当時の映画は時代遅れで、チャン・イーモウ監督が登場するわけだけど、いまとなっては、チャン・イーモウ監督自体が時代遅れな存在なのかもしれない。
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