窓によって隔てられている
複数のレベルがある、貧困にあえぐウクライナや放蕩のソ連のまさしくその現場、そしてイギリスとソ連や、各ジャーナリスト思惑などの政治的な次元、さいごにオーウェルの創作、と。
そのことによって、ウクライナ悲惨だね映画では済まなくなっている(良くも悪くも)
それは現実をどう伝えるのか、というメタ性をまさしく映画そのものが抱え込んでしまっているということで、であるからこそ、実際の記者との事実との相違を遺族から訴えられても、それがクリティカルなウィークポイントとはならないのだろう。
ヴァネッサカービーがジェームズノートンを見送る際に、キスを求められるが拒む場面が、あの身の崩れ方が素敵だ