白眉ちゃん

イエスタデイの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

イエスタデイ(2019年製作の映画)
3.5
『なくすことで浮かび上がる真の愛の存在』


 私達のこの現実世界でビートルズがいなくなった日がいつかと考えると、それは80年にジョン・レノンが彼の自宅のあるダコタ・ハウスの前でマーク・チャップマンの銃弾によって倒れた日ではないだろうか。70年のポール脱退を受けてビートルズは解散。再結成も絶望的だったがその望みが完全に断たれたわけである。90年代生まれの私にとってビートルズは物心つくよりも前から偉大なバンドであり、彼らの音楽はそれこそコカ・コーラのように当たり前にあった存在である。だから彼らの楽曲に耳を傾けて、メロディーや歌詞に心掴まれることはあってもその奥ある大きな存在、それが失われた悲しみを呼び起こすものではない。

 今作の脚本を務めたリチャード・カーティスはロマンチック・コメディの名手として、これまでも『ラブ・アクチュアリー』('03)や『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』('13)などの「愛と音楽に纏わる寓話」をいくつも手掛けている。彼の脚本では「愛」に絶対的な価値を置き、それを表現することを賛美し、後押ししている。多くのポップソングを配した『ラブ・アクチュアリー』ぶりに今作で使用されたビートルズの『愛こそすべて/ All You Need Is Love』はまさしく彼の脚本世界の出発点にして終着点と言える命題であろう。

 売れないミュージシャンのジャックが誰もビートルズを知らない並行世界へと迷い込む。はじめこそ彼と彼の音楽(ビートルズの音楽)は手厚い歓待を得られないがグラミー賞4度受賞のシンガーソングライター、エド・シーランの目に止まったことからブレイクを果たしていく。前座アクト、メジャー契約と音楽界のスターダムを駆け上がっていくジャック。反面、売れない時代のマネージャー兼運転手である幼馴染みのエリーとの関係は曖昧なまま、なおざりにしてしまう。物語はビートルズの功績を追体験しながら、身近すぎるが故に気づくことが出来ない「愛」の存在を浮き彫りにしていく。物語の表面におけるジャックの希求する「愛の存在」はエリーである。ではこの映画の本質的な部分での「愛の存在」は一体何であろうか?

 ローカルTVでジャックを見掛けたエド・シーランが自宅を尋ねてやってくる。玄関の扉を開くとエドの顔をボカした鏡越しのカットに切り替わる。勿体ぶった演出で予期せぬ来客を伝えるのである。ジャックが両親に新曲として『Let It Be』を披露するシーンでも勿体ぶる演出がなされていた。R.カーティス脚本ではしばしば大切なものを先延ばしにして印象付けがなされる。『アバウト・タイム』でもヒロインとの初対面は目隠し合コンだったことが思い出される。しかし、今作の終盤では意識的に逆の演出がされているシーンがある。それはジョン・レノンとの対面のシーンである。ジャックが渡された住所を尋ね、玄関が開かれると観客の虚を衝くようにジョン・レノンの顔が映し出される。ここに「ビートルズの存在」という現実世界にあるものを無くし、現実と並行世界のどちらにも存在する「エド」を接ぎ穂として、現実世界に存在しない「晩年のジョン・レノン」を浮かび上がらせたかったという意図が見えてくる。ビートルズの音楽が熱く消費されるほどにその失われた存在が強く希求されるファンによる、忘れられるはずがない真の「愛の存在」が明示されるわけである。

 上記の例以外にも、この映画には「扉を開ける」動作がよく出てくる。夜分にエリーの自宅を尋ねるシーンやジャックが地元で凱旋ライブを行うシーンでは勢いよく扉を開けたら裏口だった、なんてこともあった。「扉を開ける」動作には「外へ飛び出す/中に招く」意味合いがある。そこには飛び出す高揚と不安があり、招き入れる親愛と恐怖がある。ジョンの最期を連想するのはやや想像の飛躍かもしれないがこれは私達の日常の哲学的動作である。その事を鑑みれば、ヒロインのエリーがジャックのドライバー(door to door)を兼任していた事も何やら意味深長にも思える(楽曲『Drive My Car』の歌詞を擬えただけだろうが)。今作でも過去の脚本作品同様に「愛」をスクリーン上に具現化し、その無為な人生を前向きに肯定してくれている。ラストの『Ob-La-Di,Ob-La-Da』は平穏な日常を続けていく幸運を賛美する素晴らしい選曲である。


 昨年から俳優や脚本家の訃報が相次ぎ、フィクションというものがすっかり嘘臭く感じられ、しばらく映画鑑賞を断っていた。今作の甘いロマコメにもその心地は漂っていたのだが、現実には存在しない「ジョン・レノンの晩年」が映し出された瞬間にすべてを許容したい気持ちにさせられてしまった。突飛な設定から真に価値あるものへと着地するR.カーティス脚本に於いて、「ビートルズの偉業を無にしても私達の失われた愛すべき存在をスクリーンに蘇らせる」そんな気概に胸を打たれた。突如として、あるものを失くしてしまうのが現実なのかもしれない。昨日まで…のような日々はもう訪れないかもしれない。だからこそ、ただ日常に存在することへの肯定や祝福があり、溢れる愛おしさがある。近年公開されたいくつかのミュージシャンの伝記映画とはまた異なるアプローチで「愛」を結実させた。もう一度、優しい嘘を信じる気力を貰えた気がする。
白眉ちゃん

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