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ミッドサマーのrのネタバレレビュー・内容・結末

ミッドサマー(2019年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます


◯ホラー映画ではなく…
まず、監督自身も言っていたように、これはホラー映画ではない。

私個人としては、執拗に芸術性や拘りを追求した一種のもはや変態的な傑作だと思う。また、主人公ダニの自分探しというか、自分の属する正しい居場所を見つけるに至るまでの、私的な物語にも捉えられる。理由は色々ある、というかあり過ぎるので下に述べる!


◯物語への完璧な導入
冒頭はまず泣きながら電話で友人と会話するダニのシーンから始まる。主人公のダニは常に不安を抱えており、それは家族の死をきっかけに彼氏のクリスチャンにも支え切れないほどに膨らむのだけれど、彼女がどういったことをキッカケに日々を不安に苛まれた生きることを強いられるようになったのか、予測はつかない。

それでも、監督の言葉にtoxicとあったよう、ダニとクリスチャンの関係は依存的であり、健康的なものではないことが窺える。さらに、クリスチャンがあくまでもポーズとして誘った彼の男友達とのスウェーデン旅行に関しても、ダニは真に受けて一緒に行くと回答する。

これらから、完全に説明はつかないもののダニはどこか「普通ではない」、そして単に不幸なのではなくどこか不穏な空気感を纏った人物である、というイメージが最初の数シーンできっちり築き上げられる。ホルガ村へ向けてしっかりとレールが引かれ、観ているこちらとしても恐怖心と期待とが入り混じった気持ちが高揚感となり上昇していく。
個人的に、1番最初のシーンの電話するダニの表情のアップで、顔面の右と左とで全くの別人に見えるようなアンバランスさがあるのが見事だなと感じた。あ、この人のなかには2つの人格が存在するな、と予期させるような。偶然なのかも知れないけど。

トークショーの監督の印象的な言葉に、「こういった映画では、皆何かしら悪いこと、恐ろしいことが起きるということは初めから分かっている。だから、そこにたどり着くまでをどのように描写するか、という点に重きを置いている。」というのがあって。ほぉなるほどと思いながらメモしたのだけど、思い返すと、そういった意味でこれらのシーンはイントロダクションとしてもまさに完璧に機能しているなぁと思わず唸る。


◯ホルガ村の在り方
ホルガ村の真髄は、美しく言えば村の仲間に寄り添うことでみな一つになること、語弊を恐れずに(?)言えば、その大いなる目的のためならば手段は選ばずに容赦なく殺しますよ、犠牲になってもらいますよ、だって私たちは一つだからね。という点にあると思う。
村の見え方というか、要は真実は一つしかないし、村人達が厭わずに殺しをすることは村を訪れた人々の元に等しく明るみになるのだけど、その事実を目の当たりにした時に、果たしてあなたは「美しく価値のあるもの」として賛同できますか?それとも、「恐ろしく、遠ざけるべきもの」として逃げ出しますか?と、彼らは問われることになる。

まぁ、正常な人間の感覚からすれば勿論後者が正しい。けれど、72歳を迎えた老人らが自ら崖から飛び降り命を断つ儀式の際、「命を捧げることでまた新しい命に繋がる」という村人の説明を聞いて、あぁ、そういう宗教観のようなものもあっても不思議ではないし、確かにそう考えると理にかなった儀式なのかも知れない、とも思った自分がいた。。いたのである。。(しかも、なんと昔スウェーデンにはこのような儀式が存在したらしいというから驚き。)

何が言いたいかと言うと、自分は違う、自分はそちら側ではない、と思っている人でも、何をキッカケにしてその考えが覆ってしまうかは分からないなとその時実感してゾッとしたのです。

また話は少し戻るけど、崖での自殺のほかにも、両性具有の話が出てきたことからも、ホルガ村の主語は複数形ではなく単数形なのである、絶対的に。
だから、その単数形になれない人たちは排除されて当然なのであって。なぜなら「I」以外はホルガ村には存在してはいけないから。その「I」とは、主語としては単数としての意思を持ち行動するが、その実態は共鳴し合う村人たち複数であり、二次元的にホルガ村の本体を成すものが存在することは非常に興味深いなと感じた。そしてこの「I」は、ホルガ村の絶対的な統治の元完璧に機能する。この機能性が抜群なのである、ホルガ村。。(笑)

中でも度肝を抜かれたのは、完璧に計画されたクリスチャンと赤毛の少女マヤのセックスシーン。。もう、ここ本当に笑いを堪えるのが大変だったのだけど、行為に及ぶ2人を取り囲む裸の女性らが、合唱するかのように喘ぎ声を真似するんですよね。。ちょっとこれはふざけすぎでしょ、あまりにもシュールでしょ、と心の中でツッコみまくったんだけれど、、まぁでもこれも子供=新たな村人の誕生に繋がる喜びを表してるのか?それとも、クリスチャンが関係を持った不特定多数の女性のことか??とか、快感すらも無駄にすることなく私たちは分かち合いますよと言いたいのか、、真意は不明(笑)だけれど、インパクトがあったし、やはり個々の集合体としてホルガは一つの意識を有しているんだな、と再確認したシーンでもある。

その後にダニが泣き叫ぶシーンで、彼女の周囲で彼女をなだめるようにしていた女性らの声と表情が徐々にその様子を変え強まり、知らぬ間にダニと同じくらいに強く泣き叫んでいるシーンでもそれは感じた。感じたし、やはり恐ろしかった。この村人達の心は一体どこにあるのだろう、と。宗教やカルトのコントロール力ってこういうことなのかな。

話があっちこっちに行きますが、また戻って、では何故ダニはホルガ村の女王になったのか?と考えると、シンプルに、「普通ではない」彼女にとってはホルガ村こそが彼女のユートピアだったから。これに尽きると思う。つまり、ダニはホルガ村を「美しく価値のあるもの」として受け入れるサイドの人間だったということ。

既に書いたように、冒頭のシーンから彼女の異常さはこちらもほのかに感じ取ることができるものの、ホルガ村に入ってからその彼女の本質は徐々に明るみになる。それだけに留まらず、彼女のその性質とホルガ村の在り方とが、少しずつ明らかになるにつれて、互いは徐々に浸食し合いながらもぴったりと呼応していく。
村人達の歓迎の挨拶の際にも、誰かがダニに精神がダメになってはいけないよね、みたいなことを話していたと思うのだけど(恐らく裏返しの意味で)、ダニの精神はそもそもここに来る前から壊れている訳であって、ホルガ村への準備は万全だった。そう考えると、運命の導きのような神秘的な話にも思えてくるから不思議である。

まぁ、ダニがホルガ村に溶け込んでゆく工程は、普通の村ではないので当たり前に生易しいものではなく、観ているこちらとしてはなんとも恐ろしいのだけど、監督がダニにとってこの話はfairy taleと言っていて、それは本当にぴったりな表現だと思うのです。自分の居場所を見つけるための、どこか現実離れした村でのファンタジックな出来事として捉えられるから。


◯植物
ホルガ村に到着した直後、皆でドラッグをキメた時に、ダニの身体に草が生える。これはその時はダニが見た幻覚かのように思えるが、振り返ればこれは、ダニという村の後のメイ・クイーンの到来を予感したホルガ村のおもてなしの一種だったのかも知れない。

ホルガ村と植物のモチーフの結びつきは他にもあって、やはり印象的なのはメイ・クイーンに与えられる巨大な花冠。ダンスコンペティションに勝利した直後にダニに被せられるのだけど、すごく気になったのが、画面向かって左上の方(ダニの額からこめかみの辺りだったと記憶してる)の花が、1つだけすごいドクドク動いてるところ。ダニの揺れ動く気持ちを表してる?と思いつつ、動いてない時もあった気がするので、次観た時に確認したい。

あとは、ジョッシュが殺された後に彼の脚が植物かのように花壇に植えられていたり、マークが鶏の餌になってたりで、この村では肉と野菜(植物)とが逆なのかな?とも考えた。ミートパイよって女の子達が作ってたお肉は多分人肉だし、普通の肉は食用目的として食べる習慣が一般的になさそう。気になった。


◯ラストの壮大なカタルシス、そして例えようのない爽快感
ホルガ村で様々な出来事が起きるごとに、ダニとクリスチャンの互いの絆や信頼度が試され気持ちが揺れるところも、冒頭の2人の関係性を踏まえた上で観ていると、こちらの感情もかなりグラグラしてくるのが良かった。不安定な恋愛関係にいる時は私は観ない方が良いかもなと思った。(笑)

依存対象だったクリスチャンが村の女の子とセックスしている場面を目の当たりにし、ダニは彼をホルガ村の生贄にすることを選ぶ。これ、最初のダニの依存っぷりを考えると、ただの一時の感情的な選択には到底思えず。相当な決断だったと思うのです。つまり、それだけホルガ村の存在がこの短期間でダニの中で絶対的なものとして確立したということ。そして、ホルガ村の存在が、これまでの自分と恋人に決別することで自分を刷新していくんだという、物凄い熱量を持った英断をするまでにダニを進化させたということ。この2つが分かる。

極め付けは、本当に最後の最後のラストシーン。クリスチャンら生贄のいる寺が焼け落ち、その前を狼狽えながら行く宛もなくさ迷うダニ。ダニに共鳴するように、狂ったように各々泣き叫ぶ村人達。その後、ダニの表情が真正面からアップで映るのだけど、ここで彼女、笑うんですよね。たった1人だけ。そして暗転してエンディング。もう、これ完っ璧ですありがとうと思わず心の中で本気で呟いた。このダニのラストシーンの笑顔には、新たな自分の誕生を確信した喜びは勿論のこと、それとは別に、ホルガ村の主語は絶対的に単数系「I」であるにも関わらず、ダニはその掟を軽々と超えていったことが現れていると思うのです。これだけ狂いに狂ったホルガ村すら彼女は手懐けてしまったというか。そしてその後は一切見せずにちょうどここで終わってくれる…もう、本当に拍手ものだと思う、監督!完璧なカタルシスと爽快感へと私は導かれました。。


◯その他
・ダンスコンペティションのシーンで、ダニーの表情が楽しみ、喜び、悲しみ、不安、など、クルクルと切り替わるのが恐ろしかった…。ヘレディタリーのお母さんを思い出した。

・引きの長回しが多く、まるで絵本の挿絵を眺めているような感覚を覚えた。同時に、物語が一点の目的に向かって、安定して進んでいくようにも感じた。

・常に誰かがこちらを見ている、もしくは、こちらがあちらを一方的に監視しているような、観客とスクリーンの向こう側とでプッツリと断絶されつつも静かに繋がっているような、意図的な距離感が不気味で良かった。

・後ろ向きに花を摘む行為は、マイナスとマイナスの要素を掛け合わせてるようで面白いなと思った。

・クリスチャン、どこかで見た顔だなと思って観てる間ずっと気になってて、観終わって調べたらシング・ストリートのお兄ちゃんだった…!お兄ちゃん、こんなことに。。



…と、とにかく沢山述べたけれど、本当に色々なモチーフだったり描写や演出だったりと、観ながら気になる、紐解きたくなる要素が満載で本当に面白い。その仕掛けの緻密さには感激すらする。そういう意味で、監督の変態的な拘りが完璧に体現されている芸術追求映画だと思う。そして、勿論ダニとクリスチャンの完璧な別離の物語であり、ダニの自立そして自己実現のお伽話でもある。これだけ沢山のことを一気にやってのける(しかもこのハイセンスさで)その監督の手腕は本当に心からの拍手モノ。私もホルガ式の拍手(両手を上げてヒラヒラさせるやつ)で大喝采を送りたい!🙌🏻🙌🏻🙌🏻🙌🏻🙌🏻
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