ニューランド

新妻下半身 わしづかみのニューランドのレビュー・感想・評価

新妻下半身 わしづかみ(1991年製作の映画)
3.7
✔️🔸『新妻下半身わしづかみ』(3.7) 及び🔸『川奈まり子牝猫義母』(3.3)🔸【九条映子製作集】①『迷宮譚』(3.4)②『疱瘡譚』(3.3)③『審判』(3.5)▶️▶️

 ラピュタのピンク映画内の大手の一角、エクセスの特集。有力他社も含め、ピンクは、大手6社が先細り、潰れる前に、最後の形態を延ばした絞り込んだものらが上手く生きのびた形のものが中心を支えてきたみたいだ。エクセスはにっかつ残党らしい。はっきり言ってよく知らない。
 90年代の寿保は、力任せのような80年代に比べ、時に脆弱に見える程洗練されてきている。庭のスッキリした風情掛けての窓越しからの退き図と、中の家具や色彩も絞られシンプル鋭角に置くを、90゜変やどんでん・切返し・トゥショットが、サイズのアップからフルまで都度適宜やインパクトの強さでの変わり、パンやティルト・自然回り寄るか・近づき来る動感、の『新下半身~』のベースは一般映画としてもピンクとしても、より雑多重さを求められ、歓迎されないものだ。内容も何とか落し前の方向をつける夢野以外のもので放りっ放しで、冒頭暫くは遅れて入ったのでそこで説明か、そのヒントがあったのかもしれないが、窺うに説明を与えず浮遊した侭のものになっている。先に述べたクリアなメインタッチに、白い光芒、ソフトしゃのフィルターををかけたグリーン=ブルートーン、段差くねり厚硝子や二重鏡内シーンがぞんざいに入り込み載って、異常性向の現実なのか、トラウマとなった過去に起こった事の回想甦りなのか、眠っていた願望の現れ進行なのか、よくわからないままにしてある。医師の男は妻に出ていかれそうになり激昂して殺し、それを見て身体が不自由になり意識も12歳に退行しそれ以降の記憶を失っ娘の為にだけ生き、引っ越し、望みを叶え続け、娘の成熟や異性は遠ざけ、誘拐しては従順に変えた女たちを姉であり性奴隷として自己の願望実現としても与え続けてるのか。退行を無意識に装おっての、相貌は母と似てきた娘の、全て思うがまま世界で、かつて母に誘惑され・自分へも迫ってきた青年との再会で、彼を使い、父をも奴隷にし、かつて父と繰り返してた犯罪のパートナーを青年に代えようとしてるのか。答えを与えないフリーで、自由な意志の、描写とキャラが面白く、過去シーンが事実だとしても、それはトラウマを生んだのか、自己の隠れた本質肥大になっていったのか、ヒロインの父の利用から母そのものになっていったのか、一般に言われるように女性を単純にモノ化してる作家ではなく、内実は逆の要素もはたらいている。何にしても、業界的な受けは拓かれないか。
 やはり極めて魅惑的だ。明らかな展開の不足・骨組みの欠落を、踏切の上下する形状や、回想や未来の勝手さが逆に味わいに変えてゆく。類い稀なシャープさ。
………………………………………………
一般映画・ピンクを跨ぐ浜野の作品は、わりと最近、複数目にして、日本映画には珍しい、社会や性に対して揺るがぬ対峙と戦闘の姿勢、うじうじしない姿勢を確かめにゆく。『川奈~』。川奈の主演、それも21世紀に入ってから少し経っての作と分かる。
 かなり、洗練されている。色彩も冷ややかめに統一され、周りの皆を撃ち殺すイメージショットが何回か挿入され、事件や驚き毎に意識があやふやになり、視点がズレ戻ったりするシャープな構成、半ば夢的大胆行動らの溢れ、ヒロインのモノローグ進行と「ふざけんじゃねぇ」の叫び癖の締め、他にも、カメラへ語る者らの左右次々移動捉えの順の入り繰り等都度才気に溢れ、全体にスッキリ纏まりはいい。が、キャラ・展開ともに、社会への憤りには名目はよくも、枠内にとどまり、ご都合が先立ち、不可解さも内包する内実を、突き破る破天荒さに欠けていた。
 30を過ぎ将来不安な、女性ジャーナリストが、取材中の田舎の名旧家の老主人のプロポーズに応じるが、資産を気にする子供たちやその配偶者に反対され、遺産放棄を宣言。夫の老人の横暴さと揉み合う中、夫は大した打撲でもないのに、一般的な眠りから目覚めなくなり、死が間近くなる。長男・他家に養子に行った次男らが、自己の私生活歪みから、ヒロインの肉体を欲してくる。受けつつ毅然さも守る揺らぎ。そこへ夫が突然目覚め、男らの身勝手さが揃うと、妻トリオが突然結成、男らの旧態依然に、性や家の主導を宣言、行動を起こしてく。
………………………………………………
 寺山映画も同郷の、ややピークを過ぎたその分個性の際立つピンク映画の女優への起用の嗜好の詰まった部分がある。伝説の、広い市街全体をステージにした(予告はあるにしても、殆ど同時の流行語の)ハップニング劇の『ノック』と同じ年に発表された、逆に映画や表現のスタティックさを突き詰めたような3作を、内二本くらいは何十年ぶりかに再見す。
 ①は、青~緑と白の暗めモノトーンで、浜辺から野原迄様々な場と人らが、時には卓上のミニチュアとして、持ち運び式の扉一式に絡み・出入りしてしがらみを表してく作で、(担いでく)フォロー移動やズームも使われ、対比並べやはみ出し行動等、ピュアに綱渡り時的世界を描いてく。扉を開けて、思わぬ自然の伸びやかさや、別場合成画面が、繋がるべくものとして現れくる。
 ②は、寄りサイズ移行はあるも、のろのろ長いものを捉えてく移動以外はほぼフィックスで、硝子・鏡面・映像投影らを使った、シンプルもあり得ないような、縦の物越しの図・身体半ば消し・細部工作のトリックを使い、人間の明け透けな傲慢立ち姿や、人体等への悪戯操作らの、冷ややかな悪意の本質的存在を示してく。完成度は高いが、熱くはさせない。
 ③は、やたらあらゆる物へ、あらゆる人が、釘(群)を打ち付けてく(または巨大なそれを延々担いでく)行為やそれへ怯えおののく姿を、ズーム・フォロー他移動・呼応や切返し・フィルタートーン使用、等で極めて映画タッチ能動活用でぐんぐん描いてゆき、ついにはナマの観客席からの人々が次々舞台に上がり、白いスクリーンに釘を入れ替わり立ち替わり打ち付けてく、延々直接行動に至る、究極のメタシネマへの映画にみえて、より疑わない、物や映画への、たゆまない、他意なくストレートシンプルに、積極向かい働きかけ作品。
ニューランド

ニューランド