白眉ちゃん

パラサイト 半地下の家族の白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
4.5
『緻密に構築された”切り離し”の映像世界』

 確かにクオリティの高い作品だ。古典映画に倣った上下構造の象徴性と風刺性。半地下者が富裕家庭にパラサイトしていく前半の痛快な喜劇。そして完地下者の存在が露わになってから、貧富の二項対立構造はまさに足下から崩され、悲劇の相貌を剥き出しにしていく。脚本上のインシデントが豪勢に稼働し、「半地下」「領域と一線」「臭い」など本編に散りばめた社会階層のアナロジーがクライマックスの事件へと収束していく。このわかりやすいまでの格差社会への批評精神を感じとらない人はいないだろう。

 しかし、観終わった時の個人的な率直な感想は「あまり語り口のない作品」だった。あまりに全てが象徴的な意味を持ちすぎていて、かつ本編で説明されすぎている。見方や感じ方まで指定されているような印象を受け、紐解いていく知的快感を得られなかった。作り手の用意した「格差の風刺がすごい」というような画一化した感想に着地しそうになった。けれどもこの映画が終始、客観的な視点で描かれていることがとても気になった。主人公に入り込んで体感する、というより、この顛末をエンタメとして堪能する感覚。貧富の社会構造、そのせめぎ合いを客観視する感覚である。

 特に前半のパラサイトしていく喜劇パートはその客観視を規定する演出がなされている。主人公キム・ギテク(父親)は「計画を持たないキャラクター」であり、彼のドラマ上の私的な欲求は「就職したい」「パラサイトしたい」ぐらいしかなく、主観的なドラマは展開されない。パラサイトしていく部分もクラシックやナレーションをオーバーラップさせ、スタイリッシュに客観視する演出がなされている。元家政婦が訪ねて来て、作品のトーンが変わった後半のパートでも大きな変化は見られない。得られた立場を守る為に隠蔽や工作が行われるが、主体的なアクションというよりは受動的なリアクションで展開される。ここでは料理と隠蔽が並行され、コメディとスリラーとサスペンスを折衷したエンタメは継続する。「絶対に失敗しない計画は、計画を立てないこと」が明言され、一貫した客観的アティチュードについて説明がなされる。しかし、社長の「臭い」のポーズに押し殺していた感情と意識が呼び起こされ、計画にない行動が飛び出す。社会構造に隷属していた主体性(人間性)がクライマックスになってようやく解放される。

 この映画は終始、「社会格差」のテーマを描いている。映画は基本的には主人公の私的なドラマがあり、その帰結に(つまりは起承転結の”転結”の部分に)社会的なテーマが表出するものである。しかし、今作では冒頭の「半地下の生乾きの靴下」からラストの「根本的な計画はお金を稼ぐこと」に至るまで徹頭徹尾、「社会格差」のテーマをなぞらえる。キャラクターの造形、ドラマ上の対立構造、感情とアクション、すべてが社会問題の象徴として説明できてしまう。すべてがそれ用に用意されている。がちがちに理論武装されたシナリオは客観視を加速させる。
 
 また画作りの面に於いても非常に意識的だ。邸宅と階段の象徴性は言うに及ばず、室内でのシーンは腰から目線の高さで正対するように撮影される。直線を基調としたモダニズム建築の中で、裏に隠れるや下に潜む、蹴落とすといった暗躍(寄生)のアクションが繰り返される。これらもまた象徴的な仕草である。室内での秩序のとれた正対するショットは、まるでフレームの外側から観察しているような印象を受ける。映画は終始、格差社会を一定の距離を置いて”切り離して”捕らえている。観客の視点を常に外側に配しているのだ。

 ジョン・フォード的なメタファーを用いて、同じく社会階層を描いた過去作『スノーピアサー』('13)では最下層の主人公たちの逆襲を主体的なドラマで描いていた。作品はお世辞にも成功したとは言えない。食肉問題に端を発しながら、フェミニズムや資本主義の解釈もできる『オクジャ/Okja』('17)では、オクジャを守るミジャの姿にその悔恨が垣間見えた気がする。これらの遍歴も『パラサイト 半地下の家族』をより客観性の高い作品として頑なにしたように思える。


 ここまで『パラサイト』の客観性について言及してきたが、個人的には「格差社会」を客観的なエンタメ化することには恐ろしさを感じている。


 現代人の社会との関わりはメディアの発展と共に大きく変わってきた。テレビが登場し、ネットが普及し、スマホに依存するようになり、明確に社会問題との距離感や温度差が変わったように思う。以前ならお茶の間にて不特定多数で社会問題に直面していたが、今は個室にて個人のデバイスで直面する方が多くなった。その結果、社会で起こっている犯罪や災害、社会運動と自分をどこか切り離して考えるようになり、SNSでは自己責任論や冷笑的な誹謗中傷を平然と発信する人が増えるようになったのではないだろうか。同じ社会の中で苦しみ、闘おうとしている人々に対し、「自分は困っていないから、自分の周りにそんな人はいないから」と切り離し、他者の立場を想像する力もない精神的な引きこもりの雑言で溢れている。

 この映画で描かれる貧困や格差は韓国社会に限ったものではない。片や大学に進学し、留学するだけの経済的余裕をもつ友人とお金がなく進学できない長男。貧しい家庭に生まれた為に貧しさの連鎖に組まれる(貧困の固定化)や大卒500人が警備員職に殺到する(大学の空洞化)、計画を持たない(将来性を望めない)マインドは日本社会にも蔓延し、喫緊の問題である。それ故にエンタメと割り切れず暗澹たる気持ちになる。"韓国の社会は"と異化できない、切り離せない重たいメッセージを内包している。他の方のレビューで「韓国の格差社会はすごい、面白かった!」といったものが見受けられる。彼らは現実の日本社会の終末感を肌で感じていないのだろうか。それとも「領域と一線」で、この映画の表象も自分達から切り離してしまったのだろうか。そうさせるだけポン・ジュノ監督のエンタメの手腕が見事すぎるのかもしれないが‥。

 計画にない自らの人間性に揺さぶられ、ギテクはパク社長に刃物を突き立てる。自分の犯した突発的な行動に驚きつつ、彼は現場を離れる。ようやく芽を出した主体性。しかし、階段を降りていく(完地下へ落ちていく)彼をポン・ジュノは俯瞰で捕らえる。社会的弱者に寄り添い、主観的に描いてきた彼がここにはいない。そこの違和感を一瞬飲み込みそうになった自分がいた。ギテクを”切り離し”かけた。個人的にはこのショットが最も作劇的には美しく、現実的には恐ろしい会心のショットだった。

 ラスト。メディアが事件の概要を一斉に報道する。しかし、富裕層の誰もがギテクの動機を説明できない。長女を刺した身元不明の男ではなく、パク社長を刺した理由に「臭い」が引き金になったことにも気づかない。報道メディアも当然それを言語化できない。そのメディアを介した世間の反応はどうだろうか。地下の人間の心情や背景の歪な社会構造を理解できるだろうか。やがて警察が手を引き、新しい住人がやってきて事件は風化していく。映画もまた"メディア"である。社会問題をエンタメ化することは現実と異化する危険性を常に孕んでいる。邸宅を買収し、父親を救い出す果てしない道のり。又は息子が助けに来てくれる筈というあてのない未来を待ち続ける道のり。"その時が訪れるまで自らを異化せず、意識を持ち続ける"、それは私達が社会を良くする為に必要な根本的な資質なのかもしれない。

 余談。長女ギジョンだけが死ぬ理由。勉学や運転、家事スキルを活かして職を手に入れる他の家族に対して、彼女はインチキの詐欺師である。「就職したい」から「(蹴落として)パラサイトしたい」にシフトするのは彼女の行動(車内にパンティを隠す/プロットポイントⅠ)から。あとは単純に元家政婦をアナフィラキシーショックで苦しめたこと(殺人未遂)の報復ではないだろうか。
白眉ちゃん

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