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フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊の3110133のレビュー・感想・評価

4.4
人生への敬愛

いつ頃までだろうか。情報を得るのに多くが雑誌だった。
しかし、ネットやsnsが情報を得るメディアの主流となったいま、雑誌というのは奇妙なものだったのだとおもう。
情報にはディレイが生じ、記事には取材・編集者の主観が色濃く反映される。そしてなにより、記事と記事の前後関係は希薄で、ある記事のあとには、全く無関係で突拍子もない記事が載っている。
それらをかろうじて雑誌としてとどめるのは、その雑誌の主題と雑誌であるというかたちでしかない。
こんにちわたしたちは、情報をほとんどディレイなく、直接に、欲しいものだけを得ることができるのだから、雑誌とは情報メディアとしてはとても奇妙なものにみえる。

本作品はそのような時代遅れともいえる「雑誌」への敬愛に満ちている。
雑誌の魅力は上記の事柄の裏返しだろう。
記者が介入し、主観的な編集がされ、出版されることには取材先の事柄は過去のことになっている。記事はそれぞれがてんでバラバラ。それらが雑誌というひとつのかたちとして編まれたとき、これほどまでに魅力的であり、敬愛するのは、失われゆくものへのノスタルジーだからというだけではなく、なにか人生の豊かさを含んでいるからだ。

それは「フレンチ・ディスパッチ」がビル・マーレイ演じるアーサーの人生そのものということだけでなく、わたしたちの人生が雑誌のようなものなのではないかということ。
主観的で、身勝手に編集され、決して一貫性があるわけではない。それでもひとつのかたち(わたしという?)として編まれることでひとつのかたち(わたしの人生?)となる。
雑誌ははじめから雑誌なのではなく、ましてや雑誌としての絶対的条件があるのでもなく、雑誌として編まれたとき雑誌になるのなら、わたしの人生もまた、そのようなものなのだろう。
なんとスリリングでワクワクして、気楽で、楽しみなものなのだろう。

ネットでの情報に慣れてくると、わたしたちの人生は客観的で透明で、ディレイがなく、事実と同一で、最短でつながる、正しいもののように思わされていたようにおもう。
それにそういった客観性や透明性のフリをした邪悪な主観や恣意に嫌気が差す。
この作品が愛するのは、もっとでたらめで、不透明で、堂々と主観的な、正しさとは無関係な、におい立つような人生だ。

そう考えると、この映画を満たすウェス特有の質感が、たんにオシャレを気取った鼻につく形式ではなく、これこそがこの雑誌を雑誌として、この映画を映画としてまとめ上げる主題であるのだといえる。
それを安易に言語化するのも野暮なのだが、ウェスの人生観はなんとも軽妙で美しい。
野村氏がこの作品に関われなかったことを残念がっていたのもよくわかる。傑作だから。
しかし、そのタイミングの悪さ(?)もまた、彼らの軽妙な人生においては魅力的なエピソードになるのだろうな。
お酒を交わしながら、次は一緒にまたいい作品つくろーぜっていう。
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