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バクラウ 地図から消された村のotomisanのレビュー・感想・評価

4.2
 ブラジルではやがてこんな事が起こるという。出来事そのものはよーくわかるが、といってもブラジル人がみても、じゃなんでそうなるのか?すんなり分かるんだろうか。
 そもそも、たぶん代々世襲で市長だったんじゃないかというお賑やかなトニーJr.市長、というか地方政府、それともブラジル政府とバクラウ住民の係争が分からない。地元でダムを武装占拠するルンガたちと町場で暗殺を手掛けるアカシオがバクラウ出身でいるくらいだから既にえらい騒ぎなはずである。そして、バクラウ村もそのダムによる水没範囲かまたは水源管理地域の中にある事は、集落を破却する認定標が広場に打たれている事から想像がつくが、立ち退き拒否闘争中というには住民は長閑なもんである。しかしトニーの、懐柔とみせた物資提供に含まれた麻薬もどきの鎮静剤一山とか村の用水を止める日干し攻めを見れば、その悪意は丸出しである。
 いっぽう、日本の闘争風景のように立て看板も現地支援組織もないけれど、この村には歴史博物館まであって、なんの恨みか首まで狩ってる古い写真だの新聞記事だの、どうやらダム問題にとどまらない?長年の念の入った闘争である事を告げている。
 冒頭から荷崩れするほどの棺桶の山を運んでいく後始末の行き届きが不気味なんだが、あれでバイクを撥ねて転覆の大事故でなかったら、バクラウへの謎の襲撃行も長老の葬儀を狙ったテロとなったのだろうか?
 襲撃部隊の何となく足並みのそろわぬ気、仲間割れともつかぬUFO監視だの、イヤホン・メンバーは何を聞かされてるのか、ミーティングがいきなり内ゲバ殺人に至る、かつての日本赤軍でもかなり追い込まれた状況で起きたような突発事が前触れも明らかでないまま平気で起きる。バクラウ地方の係争とは全く別次元の不和が襲撃部隊ひいては地方政府サイドにもある事を示唆するその事態は、反乱者とその支援集落を制圧するための正当な名目を掲げられない怪しい私闘を怪しい集まりに怪し気に委託した、いい加減な蛮行のように見えて来る。これは単純に考えると、正規の部隊を投入する予算、人員を割けないための私的やっつけ仕事という事か?それでもバクラウをやっつけてしまえばトニー市長はたんまり儲かるんだろう。どんな金づると結びついているのか?どうせ金かとなれば、じゃなんでそうなるのかなんてどうでもよく思えるから不思議だ。
 いったんは制圧されて闘争が地下化したといっても組織的抵抗の経験があって地の利を占めていれば案外強い。分裂気味の襲撃者たちで、銃器バカだの殺人妄想家、「ナチス」に自家中毒を起こす流れ者だの連邦判事補(!)のお忍び蛮行とも気付かず雇ってしまうだのするようなバカ連発相手ならなおさら強い。こんな付き合いきれないクライマックスにも付き合えるのはバクラウ村襲撃本番のただの撃ち合いでない手応え刃応えいっぱいの異様な展開のせいだ。
 まさかの仕掛けが魔女の秘薬付きの棘で、それで錯乱した仲間割れの静かな狂態だの、市長の差し金を公言させる自白の秘法だの伝統の秘術秘薬の働きが三権分立も司直の仕事まるで無視だが村人全員参加の糾問の場で力を発揮して市長の犯行を暴いてくれる。続く、神判を思わせるサボテンと茨の山への「野放しの刑」で天に任せる事に奇妙にも、当世的ではないが筋の通った事件の扱いを感じる。つまり、先の長老の死後も新しい「魔女」が中心の(映画の中でこの者は名も呼ばれず、一度しか姿を見せない)物事の捌き方が生きている事を感じさせる。国法には適っていなくても、水も届かず正当な補償交渉の場も設けられずともバクラウにはその地を統治する筋道があるという事である。
 もちろん、このままでは済まない。むしろ、この件を口実にやっと名目も立ち、十分な予算がおりて正規の鎮圧部隊が投入され、ついにバクラウ村の命運も尽きる事になるだろう。しかし、この襲撃事件の顛末が世間に知れずに終われば、つまり、こうしたトニーのような者の私的蛮行も、一方的な立ち退き命令で事をこじらすのもよくある話(日本の三里塚や砂川、内灘、似た事は近所にだってある)と聞き流しにされるなら、それこそブラジルはそこまでの社会で頭打ちという事になるのかも知れない。
 お忍び判事の出身地でお忍び判事が裕福に暮らした町でオリンピックまで開かれた南米のホープがアマゾンや周辺高地の開発を巡って長年、対自然、対先住民、対資本家の争いを幾らも重ねてきて、例えばバクラウ村ではこんな風にねと、ゴッテリ血が流れて首も刎ねられてねと伝われば今度はお忍び判事まで関わった猟奇的蛮行の方で風評に尾ひれがつくのだろう。しかし、あそこに暮らしてほかにどう仕様があるだろう?
 世界に百何十も国があるなかG7諸国並みならせめて文化人類学的な考察で野生の論理を認められるだろうが、G20並では野蛮な行政への野蛮な反抗者の血讐沙汰で相手にもされないような気がする。このように映画に取り上げられて緻密さには欠けても暴戻に対抗するバクラウの筋道が示される事には、ただのドンパチものの装いではあるが、ならばG7メンバーならこんな場をどう出来るか?追随する我々はまだバクラウ村、或いはオリンピック都市のスラムの生活者のような、そうした者たちに過ぎないが固有の作法を心得ている。しかし、さらに後を追う者たちはこのレベルにさえ至らず、政府や軍閥、反乱軍、宗教勢力、資本家にされるがままなのだと訴える声がきこえる。
 これがカンヌで評価を得たのは、まさに文化人類学の中心地であるからに他ならない。現代的な社会制度ではおよそ容認できない出来事も、現地の当時の論理や作法に従えば至って真っ当な事を真っ当に示した快作とも感じられたろう。
 で、その真っ当に示すという事だが、それは歴史博物館の壁に血の手形を残すという事である。未来のブラジルのバクラウでやがて起きる事件の無謀な私闘の結果、多くが死に、やがてバクラウも灰燼に帰するかもしれない中、バクラウではそれを歴史に語り継ぐためにあの時バクラウ人に撃たれ今わの際の襲撃者が手形で暴挙の痕跡を示したと映画を通して、居心地悪いだろ?ならば「今から」どうあるべきか?と問いを起こす、という事である。
 バクラウ住民はその手形の主が誰かを誰とも知らないが、映画を観る者は知っている。どんな集まりの者か何が目的で集まった者たちか、何が目的で集められたかも察しが付く。そのうえでこんな事はブラジルでは珍しくないとブラジル人は思い見逃しても、カンヌで注目された事に新たな謎として、ブラジルの何事が見られたのか振り返り、そこから新しい視点が生れるきっかけになるのかも知れないが、それも余計なお世話かも知れない。
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