――これ見よがしなてめえの火傷、拡張したろか!?あ!?
上記は作中の引用とかではなく、私が勝手に思ったことなので、気にしなくていいです(なんでこんなに当たり強いのかと言うとオイラね、本当にタバコのポイ捨てが許せなくてね。「いや、タバコのポイ捨てなんて他の映画でも腐るほどあるじゃん!」とお思いでしょう?違うんですわ。こいつ指でタバコ弾きますでしょ?しかもノールックで。走るんですわ、虫酸。これに憧れたしょーもない輩が駅前にたむろして、涎垂らしながらタバコピンピン弾き合ってんのよ。虫酸が走らん時間の方が短くなりますわ。オイラ考えましてん。街中でグザヴィエドランが好きそうな輩にいきなり襲いかかるねん。そいでそいつの表情をよーく観察するねん。じわじわ溢れてくんのよマゾヒズムが。「殴られそうな自分」という自惚れが。それが見えてきたら、そいつはようドラン作品を観とると。ちゃんと学んで血肉にしとると、その場で解放したりますわ。そこでもし「なんだこらあ!」と反発しようもんなら前歯全部いったりますわ。ドラン作品に「なんだこらあ!」と凄む主人公はおらんのや。スティーブ、今だけは引っ込んどいてくれや!胸ぐら掴まれたらエロい表情して殴られ待つ。それがグザヴィエドランやさかい。そこで凄むのはドラン作品の上っ面だけを都合よく摂取してる輩に違いないんじゃい。どうじゃ、ドラン撲滅運動)
「いっくぞ~!」と言わんばかりの予備動作でカメラが切り替わる例のシーンは、映画から「無意識」の状態がかえって映画的磁場に満ちているという面白さがあり、友達の妹に撮られた「濃密さ」の意趣返しのように機能していて憎い。
この映画の「母」は、いつにも増して危うい存在となっている。順当に作品を追っていくと、どこか「母」との和解ムードがあり、最早「おふくろ」みたいになってた気がしたんだけど急にどうしたのだろう。今後の作品において、「母」との共依存関係そのものを断つという前向きな宣言として捉えるべきなのだろうか。