YasujiOshiba

シチリアーノ 裏切りの美学のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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シチリア祭り(5)

日本ではこれから公開。一足先にイタリア版DVDを視聴。ベロッキオの作品としては異色。彼の新作はいつだって異色だけど、これは最高の異色ぶり。それでもなお、ベロッキオらしさが溢れ出している。

なによりも絵がよい。撮影は初めてコンビを組んだブラダン・ラドヴィッチ。彼の撮った『黒い魂』(2014)がベロッキオの印象に残ったという。ラドビッチは名前からもわかるけれど、1970年生まれのセルヴィア生まれ。その後ローマの映画実験センターでジュゼッペ・ロトゥンノに師事し、多くのイタリア映画を撮影。ちょっと頭にいれておかないと。

ベロッキオの作品としては歴史ものにあたるのだろう。ちょっと思い出すだけでも、モーロ事件を描いた『夜よこんにちは』(2003)、ムッソリーニに恋した狂女を描く『愛の勝利』(2009)、エルアーナ・エングラーロの尊厳死問題を扱った『眠れる美女』(2012)、そしてコッリエーレ・デッラ・セーラ紙の副主幹マッシモ・グラメッリーニの自伝的小説を映画化した『甘き人生』(2017)と、ここのところはプライベートな問題からは外れてきているように見える。

とはいえ、ベロッキオの作品にはいつだってベロッキオ自身がいる。カトリックの教育を受けながら、共産主義に走り、共産主義に走りながら、マオイズムに惹かれた経験がなければ、『夜よこんにちは』が生まれたはずがない。『愛の勝利』は、『ポケットの中の握り拳』からずっと精神的を病むことの意味を考え続けてきたものを、ムッソリーニを愛した女性のなかに重ねた物語にも読める。

そんなベロッキオがなぜマフィアなのか。なぜシチリアなのか。この映画は、トンマーゾ・ブシェッタという実在の人物が、1984年、あのマフィアと呼ばれる犯罪組織について、初めてジョヴァンニ・ファルコーネ判事に告白、歴史的なマフィア裁判が開かれた事実に迫ろうとする。たしかにそうだ。

しかし、ポイントはトンマーゾ・ブシェッタという人物にある。一言で言えば「裏切り者」だ。しかし、ベロッキオの眼差しはそんな「裏切り」とは自分らしいテーマなのだという。

「それは私の中にある主題です。わたし自身が裏切り者です。すでに『ポケットの中の握り拳』のときから、自分自身のブルジョワ的な出自も、カトリック的な教育も否定しましたからね。オフィシャルな左翼に背を向け、毛沢東主義に与しました。フロイトを諦めてマッシモ・ファジョーリに向かいました。「高貴な」裏切りの数々です。裏切ることは、かならずしも破廉恥な行為とはかぎりません。ある種の困難で、勇気のいる選択なのかもしれないのですから」
(È un tema che mi appartiene. Io sono un traditore. Ho rinnegato le mie origini borghesi, la mia educazione cattolica fin da I pugni in tasca. Ho voltato le spalle alla sinistra ufficiale e militato nelle formazioni maoiste. Ho abiurato Freud per Fagioli. Tradimenti “nobili”. Tradire non è sempre un’infamia: può essere un scelta difficile, coraggiosa.)[https://www.corriere.it/spettacoli/17_luglio_30/mio-buscetta-sara-antieroe-melodramma-715c903c-7480-11e7-9773-4a99982cbf04.shtml]

それにしても、オープニングシーンはジュゼッペ・ロトゥンノの『山猫』。マフィア映画お決まりドンパチや流血もしっかり撮られている。なによりも、あの独特のマフィア裁判の様子をここまで映画的に描いた作品があっただろうか。

キャストも豪華。圧倒的なピエルフランチェスコ・ファヴィーノに、見事なシチリア方言をまくしたてるルイージ・ロカッショの名演。ベロッキオの息子ピエル・ジョルジョも刑事の役で登場(こういうところはベロッキオぽくてよい)。ファルコーネを演じたファウスト・ルッソ・アレーシは『ベニスに恋して』(2000)に出演してベロッキオに認められ、以来『愛の勝利』、『私の血に流れる血』、『甘き人生』にも出演する常連。

特筆すべきはアンドレオッティの依代となったピッポ・ディ・マルカ。ものすごく印象的だったので調べてみれば、なるほどイタリア前衛演劇の役者であり舞台監督にして戯曲作家ときた。出演は2シーンぐらいなのだけど、すごい。あ、これはやばいやつだというのが画面から滲み出てくる存在感。

ともかくも、みごとにベロッキオ的なこのマフィア映画は、コッポラやスコルセーゼ、ロージやペトリや、なんならレオーネたちが作り上げてきたジャンルのクリシェを丁寧に拾いながらも、軽々とその向こう側へとぼくらを連れて行ってくれる。

まさにベロッキオは、そのみごとな「裏切り者 il traditore」ぶりを発揮してくれたわけだ。そして「マフィアは待つことを知っている」というセリフのエピソードが、画面の向こうにあったはずの、もはや過ぎ去った過去から、あのトンマーゾという男を、こちらがわに引き渡してくれるともいえるのだろう。

そもそも「裏切り tradire 」とはラテン語 tradere (誰かの手に渡す)という意味なのだが、そこに否定的な意味が生まれたのは、どうやら聖書翻訳においてようだ。つまり、キリストをローマ兵の手に渡すことをギリシャ語のparadídōmi から tradimento と訳したことにあるらしい。そこからラテン語の tradimento とその動詞形 tradire は否定的な意味を持つことになったと言うわけだ。

神の子を「敵の手に引き渡すこと」はなるほど「裏切り」なのかもしれない。しかし、もし引き渡されることがなければ「救世主」と呼ばれた男は復活することもなく、ただの説教者のひとりに終わったのだろうか?

そのあたりのことをベロッキオがどう考えている知る由もない。ただ、彼はみずからを無宗教(ateo)ではなく、信じない者(non credente)と呼んでいる。もし、この「引き渡し tradimento 」をただ否定的に「裏切り tradimento 」と捉えなら、それは神を信じたものたちが後から振り返ってそう見えたということなのだろう。しかし、ベロッキオは「信じない者」なのだ。だとすれば、この tradimento は「裏切り」ではなく「引き渡し」として、中立的な行為となる。

もしかすると、それは映画の営みそのものなのかもしれない。ギリシャ語で言うところ para-dídōmi とは「向こう側へ para- 」「与える didomi 」こと。なんだかそれは、スクリーンの向こう側から手渡されたなにかのようではないか。

いや、ぼくはラストシーンにはっきりとそれを受け取った。そして受け取ったものがなんだかわからないままに、こうやって文章を書きながら、その正体を突き止めようとしている。それはまさに「tradimento」。みずからを「traditore」だというベロッキオが、ぼくらの手に託してくれたものがなにかを知りたくて、ぼくらはまた明日も映画を見ることになるのだろう。
YasujiOshiba

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