カラン

プライベート・ライアンのカランのレビュー・感想・評価

プライベート・ライアン(1998年製作の映画)
4.5
アラブ学者で哲学者の岡真理はかつて、この映画は戦争の否定を装おった戦争の肯定だと分析していた。

岡の分析はこうだ。ライアンは助ける甲斐のある好青年として描かれており、映画が徹底して描く戦争の犠牲が、止むに止まれぬものとして、物語化=肯定されてしまい、本来どのような解釈も合理化もできない戦争の暴力を描き損ねているというものだ。戦争の本当の暴力性とは、無意味な死にあり、誰かのための犠牲というのは戦争を肯定するプロパガンダでしかない。

おそらく、岡の言う通りに映画をすべきならば、誰もこの映画を見ないのだろう。そういう意味で、この映画は面白く、この映画の意味がわからないなどというのは、愚かさの告白でしかない。誰でも分かり、誰でも戦争はよくないと安心して思えるように作られているのだ。そういう意味でよくできている。この映画はスペクタルだ。下のレビューでは、「訳がわからない」というようなことを書いている人がいるが、普通の常識人であれば、心配ない。問題は私たちのその普通さのほうだ、他者の犠牲に意味を見出すその常識こそが問題なのだ。

岡の分析によれば、この戦争映画の安心感は、そのスペクタル性は、暴力の暴力性を抑圧したことで成立している。剥き出しの暴力を描いているように見えて、私たちはいつの間にか、暴力を解釈して意味付けし、飼いならされた暴力を見ながら、戦争の暴力から目を逸らしてしまう。

簡単に言えば、ほろっとしてしまうのだ。トム・ハンクス可哀想って、でもマットデイモンよかったねって。問題はこの「でも」だ。いつの間にか戦争の物語化不可能な暴力が、善良なるライアンの救出という大義によって正当化されているのだ。この時私たちは、「《母》なる日本のために」という大日本帝国のイデオロギーと同じ仕組みにはまり込んで、泣けているわけだ。戦時中、無数にプロパガンダ映画が作られた。私たちは、今、それに泣いていいのか?

私たちは、この映画を楽しめる。そこがよくないと岡は言っているのだ。評価の難しい、意図されたものだろうと、そうでなかろうと、面白いかどうか言うのをためらわせる、素晴らしい、映画である。
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