いのりchan

犬王のいのりchanのレビュー・感想・評価

犬王(2021年製作の映画)
5.0
原作を読むと、また違う表情を楽しめるとおもう。映画の後でも前でもいいし、どうだろう?映画の後原作を読んでもう一度観に行くというのは。



初日の朝イチ。確かな熱がそこに有ったが、思ったよりも距離のある昂揚だった。カタルシスを感じにきたわけではない、カタルシスを期待せぬように(原作も読んだし「カタルシスは期待するな」と書いてある毎日新聞の作品評も読んだ)となんだかよくわからない予防線を自ら張り足を運んだところ、原作と地続きで、そしてまた色の違う熱。
昨日の夜は、レイトショーの23時過ぎ終わり。正反対の機会での鑑賞を終えて、わたしはこの物語をしみじみとあいしているなあとおもった。

原作より強調されない美醜の描写(世阿弥は言及があるけれど犬王の容姿については強調されることがない)。より存在感を増した不具のひとびとたち。映画によって過度に演出されるというより、ほんとうに人間の営みとしてのライブ(フェス)を思わせる、静かな昂揚。人間の営みだ………とフィクションとリアルの絶妙な(まったくもってフィクション寄りであるのに!リアルを感じる空気感!)まじわり。「語り」を画で体現している。異形としての「犬王」の身体表現。シテや舞の現代的変換。

でもそういうことじゃなくて。ずっとあたしが感じていたのは。このヤバ過ぎ日本社会で、あたしは絶望したくないししてないけど全然絶望してるひとがたくさんいてそのひとたちに傷つけられることもあるってことを体感し続けさせられてる、このヤバ過ぎ日本社会(2回目)に生きる一個人として、犬王は、友有は、救世主でもヒーローでもなんでもなく、「あたしたち」であるってことだ。これは語り手であり、語られるひとびとの物語だ。“自ら名を探し、名づけ、物語を生きる”、それが人生であるということ。それを強く感じた。

3回目は、原作をもう一度読んでから挑もうと思う!

以下、初見の感想です。



「犬王」は名を探し、己れを名づけ、朋と物語を紡ぐその様を物語るという物語だけれど、「名」無き平家の魂たちが、犬王と友有の奏でる物語りに「我、ここに有り!」と名無きまま祭に呼応していくさまがよかった。そこには名の有無による優劣はない。
「名」は凄く大事なものだが、それを名乗らずとも歓び合うことができるし、犬王の周りを彼らが舞い続けたのは犬王が「欠けている者」だからではなく犬王が「生み出す者」だったから。それを受け取る者を巻き込んで(生まずとも共に祭りにはふけることができる!)舞台は熱を帯びていくのだ!

音楽は常にカタルシスを生み出すように熱を持って動いていた。しかし、犬王の犬曲までを導く最初の友一の歌は烈しさをうちにこめたままに兆しを待ち続ける。友一が待つのは観客と同じく、犬王だ。犬王の舞台までの道を拓くように歌い上げる、その曲調はたしかにディープ・パープルっぽい。そのうちに秘めた熱は、犬王の変容、変化(へんげ)とともに、段々と外にあらわれ、周りをも巻き込みはじめる。友一・友魚のいでたちも変わる。

友一のいでたちは「遊女の着物」だし「化粧」までして、と琵琶法師たちに陰口を叩かれる。最後の解呪ののち、顕現した犬王の尊顔の白い輝きは、舞のためのお化粧だけでなくEMOのメイクをも想起させる(DAVID BOWIE?)。

途中で気づいたが、自明のことだからか言わぬにしてもそれどころじゃなく(友有は物語を拾いたい、犬王は踊りたい)言わぬにしても、友有も犬王も男であることや女であることについての表明や、なにかをするにあたってそれらを理由にする台詞はなかった。性よりも名である。名が、物語が欲しい。自分の物語を探すにあたって、名こそ!と、性に焦点をあてなかったことは(記憶にないだけかもしれないが)ストレスがなかった!

「美」で踊ろうと呪を喚びこんだ犬王の父、「己」の物語を踊ろうと生きた犬王と友有。鎮魂でありながら「名」無き皆を起こすふたりの歌。欲に善悪があるのではなく、欲をどう扱うか。それが、犬王の父と犬王の間の違いだった。

名声や地位ではない、己が物語を探さなければならないのだ、あたしたちは!



音楽は常に熱を持ち、光を放っていたが、これから物語られる友有と犬王の結末を知る側(原作を読んでいるので)としては、物語が進むにつれ、温度のない「結びの言葉」と最後が眼前に広がることが頭から離れない。

原作は、あえて風のように颯爽とした書き口でふたりの結末が描かれていたように思うが、その行間にはたしかにふたりの朋としての在り方を読み取ることができる。さて、映画はどうか。「変革」は名だけを残して終わるのか。

終幕、12秒の静寂のなかの桜と犬王(12秒とかゆってるけど動悸ヤバくてもっと短いかも!)。そして断ち切るようでいて、余韻を残したまま現代。
(今思えば、友有を失い、物語ることをやめた犬王の姿なのかもしれない)

彼らが成し遂げたことは世界になにひとつ残らなかったわけではない。名が遺り、物語が興っている。

ひとつの時代は終わるも物語は終わらず、平家の魂を唄い、自分の物語を手に入れようと奮起した彼らもまた、あたしたちに語られるべく現代にあらわれたふたつの魂であった。そのことをあたしたちに思い出させ、物語は幕を閉じる。

最後、「名で探す」をああやって繋げてきたことが、マジでヨかった。世界に絶望しなくてすんだ。

「犬王」の音は常に明るい。生きようとし、生きた音だ。同じようにこの物語は、「今を生きている」物語で、今を生きるあたしたちに「生きろ!」と言っているように、今のあたしの体調的には受け取れた(よかったね!)。

物語は諸行無常の風を纏いつつ、それでもカタルシスの熱を秘め、今のあたしたちのこころにそれは点る。

成し遂げたことは、なかったことにはならない。生きるわよ!