あなぐらむ

生きるのあなぐらむのレビュー・感想・評価

生きる(1952年製作の映画)
2.9
酷い話である。映画がどうのではなく、物語として酷い。これはブラックユーモアのユーモア抜きみたいな話である。
これ、ワーカホリックで死ぬ人の話(癌だけど)だよね? こんなもん正月から放送するなよNHK。
黒澤明、橋本忍、小国英雄と御大三人で描き出すのは「戦後(文字通りの)」復興の中で「生きがい/死に甲斐」を見失った男の憐れな最後だ。こんなもんが140分だぜ?信じられん。

これはヒューマニズムではなく、強烈なニヒリズムですよ。或いは武士的・封建主義的な何か。故に人を斬らぬ人は生きる目的を持てない。若者に「ミイラ=生ける屍」とあだ名されてホイホイ笑ってちゃいけませんや。
冒頭の役場の陳情持ち回りシーンが後段にするすると活きてくる辺りの作劇のシンプルな巧みさや、一応のヒロインとなる小田切みきの若い世代を演じるおしゃま(死語)さ、まさに高等遊民といった感じの伊藤雄之助、酷薄な息子を演じて出色の金子信雄など、見どころはある。相変わらずばあさんな菅井きんとか。でもなぁ。

ワーカホリックかどうかっていうのは、彼が幾ばくも無い余命を結果的に「仕事」にまい進するしかないっていう所なのだが、彼のような仕事人間っていうのは、自分の外にしか価値が無い訳だ。空っぽの人間。空っぽの魂。それを「戦時」というもので皆補完されてきたというか、そうせざるを得なかったのだが、そのツッカエが無くなった先には、もう自らの中(自己肯定ね)が全くないと。

彼は確かに公園を作り上げて、ほんの少しの達成感を持ったかもしれない。ただ、その達成感を描かない。命短し、と歌って死んでしまう。映像的には美しいが、底知れぬ意地の悪さを感じてしまう。
代わりに描かれるのは主人公の退席した後のお通夜のシーンだ。些か冗長とも思えるこの台詞持ち回りの「在りし日の彼」についての語らいは、結局の所それぞれの持ち場の人間の身分保障の為の自己弁護に終始する。彼を讃えてはいない。あんな風な老後は送りたくない、という意思表明である(このシーンはずっとそれを聞かされている息子の金子信雄を罰しているようにも見える)。

だいたいの映画というのは、主人公が喪っていたものを取戻したり、新たな道を見つける事をそのテーマとする。だが本作にはそれがない。彼が得るべきは仕事の達成ではなく自らの存在価値であり、それは利他的なものであってはならない(結果的にそうなろうと)。
お通夜のシーンに若者の姿が無いというのがご丁寧である。彼女の作る他愛ない玩具の方が、まだ人々を和ませようという。

東宝争議も終わり、ある種の無常観の中で撮られた一本かもしれない。労組運動は誰を勝たせたのか、という強い諦念かもしれない。
「死」というものの価値観を大きく、ドラスティックに変えて見せた非情でアイロニカルな一本である。こんな映画を有難がっててはいけないのである。現代人は特にね。

ちなみに、製作の本木荘二郎はこの後(10年後)ピンク映画監督へと転身する(高木丈夫ほかの名義)。