こーひーシュガー

生きるのこーひーシュガーのネタバレレビュー・内容・結末

生きる(1952年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

【燃え尽きゆく命の美学―――『生きる』】

〈二度目の誕生日〉
役所の部下である女性・小田切とよと交流を深めていくうちに、彼女に生き方のヒントを求め始めた渡邊は新しいものを生み出すという目標に辿り着き、今までの自分の普通の生き方を払拭し、立ち上がる。そして階段を降りていくが、その店で誕生日会をしていた若者たちが渡邊の背中にバースデーソングを歌う。そこへ一人の若い女性が階段を上ってきて、渡邊とすれ違う。渡邊が生まれ変わったことを暗示しているシーンだ。渡邊という男の二度目の誕生にとよはきっかけを与え、その場に立ち会った。だから渡邊が亡くなったとき、彼女は焼香に来なかったのではないか。単に報せが来なかったという捉え方もできるが、とよの役目は生きがいを見失った彼を生まれ変わらせることであり、誕生のシーンで既に完了していたからではないだろうか。
皮肉にも渡邊のあだ名を「ミイラ」にしたとよが彼を「ミイラ」ならざるものにしたのである。
人は限られた時間の中でこそ輝くのだ。

〈二幕と三幕の交互描写〉
渡邊が公園作りを決意した時点から第二幕が始まったが、その後すぐに、葬式のシーンにつながる(第三幕)。
その葬儀での助役や役所の職員たちの会話劇が三幕にあたるが、その中で渡邊の生き様を回想シーンとして挟み込む演出をしている。二幕と三幕が重なり合っているのだ。
後半を会話劇にするとは思ってもいなかったので、驚いた。
過去と現在の関係性を強調しているかのように感じた。時間は不可逆である。だが、渡邊の話題を会話で引き出せば、渡邊は"そこにいる"。
渡邊が関わった存在の記憶の中で彼は永遠に生き続ける。
おそらく黒澤明は渡邊という男を死なせたくなかったのだろう。だから二幕と三幕を交互に映し、渡邊が死んだあとでも、まるで彼が全編を通して生きているかのように見ている人を錯覚させることができる。それほど渡邊という男の人生をずっと見ていたくなったのではないだろうか。事実、私自身も、彼をまだまだ観ていたかった。

今作の志村喬の演技力には脱帽せざるを得ませんでした。目力といい、生気のない猫背といい、やる気を出したときの顔つきといい…
黒澤は撮影前に実際に体調を崩していた志村に対して、体調を治さないでくれとまで頼んだらしい。それが功を奏したのかは知らないが、見事な演技だった。
素晴らしい。