グレアムの手紙

ホドロフスキーのサイコマジックのグレアムの手紙のレビュー・感想・評価

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ホドロフスキーさん

悩みを抱える人々に向き合い、"言葉による精神分析"を、"行動によるサイコマジック"として実践していく中で、創作へと落とし込んでいく試み

例えば、我々はいつのまにか着させられた自分の衣服を破り捨てられずにいるどころか、それを自分で選んだものだとまで思い込み、裸であることに抵抗してしまい、自らを解放するのにとても苦しまなくてはならない生き物です。
これまであなたが多くの作品の中で繰り返し用いてきたこういう"裸"のイメージを、改めてセラピーとして実践に落とし込んでいき、更にそれをまた映画作品として再構築していくという、一つの大きな手品の全貌を見ているような感覚でした。
決してあなたのこれまでの作品を抜きにして今作は語れないでしょう。
なぜなら、これまであなたは一貫して鑑賞者に対して映画作品を通したメタセラピーを施すサイコマジシャンであったからです。

ただ、逆に言えばあなた施術自体、どこまでも映画的なのです。
つまり、あなたの施術とは、イコールで患者にカメラを向けることなのです。
カメラの介入が患者にとってのセラピー効果を増幅させ、その異様な増幅がなければ、鑑賞者が魔術・マジックを見ることもないかもしれません。(もちろん、あなたが学んできた多くのエソテリックな知恵や、メスメリックな身体観に基づいているのであろうその施術そのものが、既にかなりマジカルではありますが😓)
カメラを向けることで患者の前に立ち上がるある種の演劇的な空間が、それこそ"夢の中"と同様の時間の流れをうみ、あなたがそこに根拠を与えることで、患者の記憶の縺れが解けていくからです。
「ダリは夢を現実に持ち込もうとしたが自分は夢に根拠を与える」とあなたは作中に述べていました。また、あなたも多大な影響を受けたであろうグルジェフら「演劇は、人が日中は失ってしまっている夢の時間における意識状態を呼び起こす機能を持つ」という発言を残しています。

現実と向き合っているんだか、演劇の中で踊らされているんだか、夢を見させられているんだか、その境界が薄れこそがホドロフスキー映画なのかもしれむせん。

これまでの諸作品において、自分の記憶と夢を現実に付き合わせ、映画によって境界を突破しようとしてきたあなた自身が、今作ではその実践を悩める隣人に対し適用することで何が生まれたのでしょう。
あなたは確かに人の病の根底に現代医学では証明のつかない、業の積み重ねのようなものの存在を認識してして、その深い洞察から患者の病に向き合っています。
ここでは、その治療効果云々を言うのはナンセンスかもしれません。
確かに数名の患者の表情に見られる変化は、その奇跡的な体験を物語っていますが、あなたのもとへやって来る時点でその彼らはすでに出口一歩手前だったようにも思えます。

治療効果の是非は問題だとは思わないし、たとえサイコマジックが芸術ともセラピーとも言えないようなモキュメンタリー仕掛けのハッタリだったとしても僕は全然構いません。
僕にとっては、これまでのあなたの作品から一貫している、厳格な良心と柔和なユーモアが本物であることをこの作品で確かに確認できたことが何よりです。
それはいつも危険と怪しさと隣り合わせなのです。

グレアム