そーた

1917 命をかけた伝令のそーたのレビュー・感想・評価

1917 命をかけた伝令(2019年製作の映画)
4.0
アナログやら、デジタルやら、、、

ぼくは普段ゲームはやりません。
というか、やる時間がない。

むかしは狂ったようにやってた時期もあったんだけど、
プレステ2が壊れて以来卒業してしまいました。

うーん、プレステ2なんていまや骨董品扱いですかね。

そう、だから、たまにやりたくはなります。
でも、わざわざ買ってまではねって感じ。

そんなとき、
最近はほんとに便利ですよね、
YouTubeにゲームのプレイ動画なんかがアップされていて、それみてるとなんだか擬似的にやってる気持ちになってくる。

不思議な時代です。

僕がゲームをメチャクチャやってた時代だったら、友達のゲームプレイを後ろに座って見ていたりして、
順番に今度は僕のプレイを見てもらってなんてことをやっていました。

昔も今もあまりやっていることは変わらないんですね。

これって、ひとに見てもらう、もしくは見る、
この関係がなんだろうな、
昔と今ではアナログなのか、デジタルなのか、
という違いとでもいいましょうか。

現代というものは、
スマホにしても、パソコンにしても、
ゲームにしても、通信というのがあたり前な時代。

現代ではひととの関係は言うまでもなくデジタルな方が圧倒的に主流なんだと思います。

関係がデジタルというか、デジタルな画面越しの関係性。

フェイストゥーフェイスなアナログではないデジタル、フェイストゥーデバイス的な関係です。

ヒトとヒトとの間にデバイスというワンクッションをおく。

これって、なかなかまどろっこしいことをしているようで、実は距離感が適度に保てている。

距離感の最小単位。

おや、これってデジタルの一種なのかも、、、

はい、突然ですが、
これはサム・メンデス監督の戦争映画、1917についてのレビューです。

なんせ、前置きが今回は壮大なんですよ。
そして、それがまだまだ続いていくんですから。

はたして、どんな帰結になるのやら、、、

思考というものはこれくらい取り留めのないもので、
それでいて、
取り留めがなくともなにやら帰結らしいものに不意に飛躍してしまうからそれがまた面白い。

飛躍、、、
これもデジタルの一種なのか、、、

まぁ、これは置いておいて
えーっと、
アナログやら、デジタルやら、
という話まで行き着いたんでした。

さて、映画の撮影技法はフィルムからデジタル撮影の方が主流になりました。

これは技術的な話で言うならばアナログからデジタルへのシフトです。

単純に撮影技術としてのはなし。

では、映画というものを表現技法としてみるならば、
それはむしろ、もともとデジタル的なんだろうなとぼくは考えます。

映画の誕生初期からデジタルだった。

アナログな現実に対しての虚構としてのデジタル。

はて、これはいったいどういうことなんだろう、、、

アナログは連続量。
デジタルは離散量。

調べるとこんな説明にたどり着きます。

まだまだ、なんのことやらですね、、、

ぼくらが、例えば時間というものを考える場合、
まず根底では永遠に流れる時間の本体みたいなものを想定していることを前提として、そのなかで特定の時間を指し示して具体化をします。

時間がこの世に存在するのかという、
哲学の難題をここではさらっと無視するとして、
まず、ぼくらは途切れのない、切れ目のない、連続的な時間というもの、
これをアナログと呼んでいます。

アナログな時間です。

すると、深夜の12:58などの具体的な時間というものは、その途切れのないアナログな時間に切れ目を入れて、ぼくらが理解しやすい数字というものに変換を加えたものになります。

この変換にはルールがあって、最小単位があります。

12:58のつぎは12:59、
そのつぎは01:00という具合に、
ここで秒を考えないとすれば、1分という値が最小の単位となるわけです。

たとえ秒を考慮するのであっても結局は同じことで、1秒を最小単位と考えて話を進めていくこともできます。

さらにこの下の単位を考えることもそれはできますが、こんな時間を必要とするのは陸上か水中で競争する人たちくらいなもの、あまり実用的ではありません。

という具合に、アナログだった時間に切れ目を入れて、さらに最小単位を定めてぼくらが理解しやすいように加工を加えられたデータ、これがすなわちデジタルというものなんです。

アナログは連続量。
デジタルは離散量。

ようやくこれが理解できたでしょうか。

離散とは不連続、とびとびということなんですね。

あ、はい、これ間違いなく、
サム・メンデス監督の戦争映画、1917についてのレビューです。

この調子じゃ、心配になりますよね。

でもね、この映画が全編長回しということだもんで、
今回は思考も長回しでその過程をたどっていきたいなと思っています。

さぁ、話を戻しまして、ではなぜ映画は技法としてはデジタルなのか。

それは、物語として成立されるために情報を加工しているからに他なりません。

だってそうでしょう。

映画は場面が、時間が、焦点が、さまざまに移り変わります。

ぼくらの一人称な生活では考えられない現象ですよね。

また、映画が例えば一人称的であってもこの中でなされる時間の飛躍というものはやはり、現実とはかけはなれているものです。

そんな、時間や場所の移り変わりのひとつひとつがカットと言われるもの。

言わば映画の最小単位。

そのカットを作り上げるために余分な情報は、文字通りカットされてしまうわけです。

だからこそ、映画の技法とはデジタル的なんです。

現実がアナログ、
虚構はデジタル。

ならば、アナログ的な映画技法とは一体なにか、そう考えてみたくなりますよね。

そして、それこそが長回しに当たるんです。

長回しとはカットが異常に長いシーンの撮影技法のこと。

ひと昔前であれば、
スネークアイズの冒頭のシーンがすごいとか、いやいやザ・プレイヤーの冒頭のシーンの方がすごいよとか、いやいやいやキルビルでしょ、いやいやいやいや、トム・ヤム・クンでしょ、、、なんて長回し談義に花がさく。

そして、そういう会話の潮目が変わってきたのが僕が思うにアルフォンソ・キュアロン監督のトゥモロー・ワールド。

度肝をぬくクライマックスシーンの長回しが6分弱、なおかつ戦場の只中という圧倒的な緊迫感。

これはほんとにほんとに凄かった。

主人公が反乱軍の戦闘に巻き込まれて絶体絶命になっていく様を銃弾が飛び交う目まぐるしい展開の中でひとつのカットに納めてしまった。

その6分というのも驚異的な長さのカットだったんですね。

このような長回しとは、
デジタル化された映画全体の中にあっても、
そのワンカット部分は逆にアナログ化されているとみなせるはずです。

なぜって、そのアナログ化を支えているのは紛れもなく僕らの現実世界と同じやり方の時間解釈だからです。

そして、
デジタル表現としての映画作品のなかでは長回しがひときわ異質であるがゆえに、
クリエイターは技巧としてその技を見せつけようとするし、
また同時に僕らもそれをザワザワしながら楽しむことが出来るというわけなんですね。

さぁ、きましたよ、究極なのは、
作品全部がワンカットということでしょう。

これをしてしまうと、表現の上では完全にアナログになる。

あら、ようやくという感じ!

サム・メンデス監督の戦争映画、1917。

これこそが、戦争映画をアナログ的に表現した今までにない作品。

何が今までにないのか。

作品全部がワンカットの映画ならば、
最近であればバードマン。

あとは、僕が虜になったエルミタージュ幻想。

古典であればヒッチコックのロープなどがあります。

ただ、今回のようにあくまで没入感ということを長回しの効果として狙ったというところ、そこが新しい。

戦争映画は客観が主観に近づけば近づくほど、息が詰まるほどの臨場感を感じることができる。

プライベートライアンしかり、
スターシップトゥルーパーズしかり。

ただ、その没入や臨場を長回しで表現する。

おそらく、今までこれをやりたくても技術的にできなかったんだと思います。

いや、する必要性があまりなかったのかな。

なにせ、ストーリーが限定されてしまいます。
だってアナログなんだもの。

ジュラシックパークで、
スターウォーズで、
全編長回しにする必要が果たしてあるでしょうか。

複雑なストーリーをテリングしようとすれば、おのずと無駄を省こうとデジタル化を施さざるを得ないんですね。

だからこそ、今回の全編長回しを戦争映画で行ったというのはある意味凄いことなんです。

ただ、見てみれば分かりますが、ストーリーは非常にシンプル。

上司に言われて前線に伝令を届ける。

もはや、はなからムダな部分がないんです。

デジタル化できない。

だからこそ、今回のストーリーをエンターテイメントにするためには長回しを活用して逆にアナログなままでその良さを伝える。
 
素材の良さ。
鮮度。それを適切に調理する。

寿司、、、 

いや、この例えはちょっと違うかな、、、

さておき、サム・メンデスが仕掛けたこの戦争映画で重要なのは没入感を演出する手法としての長回し。

これがとにかく一線を画していたわけなんです。

でも、本当に長回しなのかと言われたら、それはどうか。

いやいや、どう考えても長回しでしょうと言われそうです。

先ほどアルフォンソ・キュアロンのトゥモローワールドで潮目が変わったという話をしました。

実はこの映画の長回しは長回しのように見せることが出来る画期的なデジタル技術によって支えられていたんですね。

だから、昔のようにフィルム一本延々まわすという、従来の長回しとは全く別ものなんです。

その技術を、ゼログラビティやローマに活用していった。

そして、バードマンなんかもその技術力の産物でしょうし、
なによりも今回の1917もそのプロット上にあります。

余談ですが、同監督の007/スペクターのオープニングシークエンスの長回しも逸品でしたね。

だから1917とは、長回し風に見せているという作品。

長回しは多用しているので、
正確にいうならば複数の長回しをつなぎ合わせて全編長回し風に見せているという作品。

ロープの現代版。

だから、なにが面白いって、
作品をアナログに見せるために画期的なデジタル処理を施すに至ったその目的意識に潜む逆説性なんです。

アナログをデジタルに語らせるというストーリーテリング。

ここに尽きます。

さぁ、ながなが書いてきましたが、
最終的なそんな映画の印象とは。

長回しで戦争映画を圧倒的な没入感で描くと一体どうなってしまうのでしょうか。

うん、それは、
ゲームでした。

結局は誰かのうまいゲームのプレイを見ているような気分になるのね。

見終われば、それは全クリしたかのような達成感。

あらら、話が最初に戻ってしまいました。

そう、それもそのはず。

はなから、この結論ありきでゲームの話題からスタートしたんですもの。

この映画だってそう。

結論ありきのスタート地点。

握手で始まり、
握手で終わる。

誰と誰の握手かは見てのお楽しみ。

全編長回しといっても、
帰結ありき。

映画というものはやはり、デジタルなんです。

ストーリーですものね。

だからね、思考であってもアナログ的に開示するのって難しいの。

結局はどこかで加工が入る。
今回の作品がそうであったように。

僕らの頭はどうもデジタル的なんだ。

アナログとデジタル。

ただね、映画というものが、表現の上ではデジタルだったという気付き。

思わぬアイディアでした。

思考のデジタル的な不連続性に、ぼくは日々助けられているんだなー、、、

はい、ここまでが、
ワンカットです。
そーた

そーた