湯呑

ブリング・ミー・ホーム 尋ね人の湯呑のレビュー・感想・評価

4.5

私は『宮廷女官チャングムの誓い』なるドラマを観た事がない。以前勤めていた会社の同僚のオッサン(全く仕事はできないが、とにかくいい人だった)が、聞いてもいないのにこのドラマの話ばかりしていたので、日本でも人気があった事は知っているものの、それだけである。だから、イ・ヨンエ14年ぶりのスクリーン復帰作!と言われても全然ピンと来ない。仕方なくプロフィールをネットで調べたところ、『JSA』でスイスの女捜査官を演じていた人だと分かった。確かに、あの人は綺麗だった…
まあ、それはともかく本作のあらすじについて述べておこう。イ・ヨンエ演じる主人公、看護師のジョンヨンは、6年前に当時7歳だった息子ユンスが失踪し、長く失意の日々を送っている。しかし、夫ミョングクの協力もあり、決して希望を捨てず現在もユンスの捜索活動を続けていた。そんなある日、息子らしき子供が見つかった、という情報に誘い出されたミョングクは、現地に向かう途中で交通事故に遭い死亡してしまう。この事故をきっかけに、ユンスの失踪事件がメディアで大きく取り上げられ、忘れ去れていた事件が再び動き出す事になる…
このあらすじからも分かる通り、本作は幼児誘拐、幼児虐待をテーマとして扱っており、この手の映画はだいたい陰惨な展開になっていくものである。もちろん、現実にも同じような事件は起きているのだから、それを反映しているだけだとも言えるが、観客をどれだけ胸糞悪くさせるか、という点に製作者は一生懸命に工夫を凝らしている訳で、悪趣味といえばこんなに悪趣味な話はない。ただ、この映画では子供に対する暴力について、そこまで露骨な描写は控えられており、全編を通じて目を背けたくなる程のシーンは無いのでご安心頂きたい。ただ、それでもしっかりと「嫌な感じ」を味わわせてはくれるのだが。
この作品の「嫌な感じ」のするポイントを挙げておこう。まず、本作ではジョンヨンと、子供たちに重労働を課して釣り場を経営する家族、その一家に寄生する悪徳警官ぐらいしか主要な登場人物が存在しない。この一家は6人家族なのだが、どれも人格的に非常に問題のある人物揃いである。また、ジョンヨンの夫は映画が始まって早々に死亡してしまう為、彼女の味方をする人間は一人もいない(厳密に言えば、一人だけ良心的な警官が登場するが、彼が積極的に事件の解決に乗り出す訳ではない)。従って、息子を探し求めるジョンヨンは必然的に孤独な戦いを強いられるのだが、観客からすれば感情移入できるの登場人物がジョンヨンだけという事になり、彼女の感じる孤独や恐怖と映画を観ている間中、付き合っていく羽目になる訳だ。これが『コマンドー』であれば、シュワルツネッガーが悪人たちを過剰としか思えない暴力で皆殺しにしてくれるので、観客がそれまで感じていた鬱憤を最後には解消してくれる。しかし、本作の主人公はあくまで無力な女性に過ぎず、もちろんクライマックスでは『コマンドー』的な展開が用意されてはいるものの、それほどスカッとする形で決着する訳ではない。むしろ、最後に用意されたどんでん返しは、観客が期待していた筈のカタルシスを奪うもので、じゃあそもそも主人公がやってきた事は何だったんだ?という気にさせられてしまう(これはこれで中々上手いエンディングだとは思ったが)。
もうひとつ、問題の一家が漁村で釣り場を営んでいる、という設定である。これは特にアジア圏内で顕著だが、ひなびた漁村というのはなぜか曰く言い難い不吉な印象を与えるものだ。この一家の姿を捉えたいかにも韓国映画らしい、くっきりとした陰影で描かれるアクの強いショットと、ジョンヨンがユンスを回想する場面でのソフトフォーカスを多用したショットの対比が、この漁村をより一層、異界めいたものに見せていく。先に述べたどんでん返しによって、本作は事件の全容が明かされる訳ではなく、むしろ曖昧な部分を多く残したまま幕を閉じる事になるのだが、それが映画にある種、地獄めぐりの様な雰囲気を与えていると感じた。失踪した息子を探す間に、ジョンヨンは歪んだ論理や倫理が支配する、異世界へと迷い込んでしまったのである。
そうした訳で、最初から最後まで非常に気の滅入る話ではあるのだが、悪役を単なるサイコパスとせず、生きていく為に多少の悪事には目を背けざるを得ない生活者と設定した事で、映画は韓国下層社会の実態を反映し、地に足の着いたリアリティを獲得している様に思う。ジョンユンが単身で住居に忍び込む場面のサスペンスフルな描写なども、なかなかツボを押さえた仕上がりだし、イ・ヨンエも何度も襲い掛かる絶望的な状況に憔悴しながら決して諦める事のない母親をノーメークで印象的に演じている。
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