なまさかなクン

ミセス・ノイズィのなまさかなクンのレビュー・感想・評価

ミセス・ノイズィ(2019年製作の映画)
4.5
映画はナマモノだ。その鮮度が大事。ただ、それは過剰に新鮮すぎたり、それとは真逆のカビの生えた野菜のようであってもならない。その点において、この作品の登場人物のまさしくナマっぽい芝居ほど、今作にふさわしいものはないのではないか? そのナマっぽさが絶妙なのだ。

あまりにも強すぎるあまり、セリフがひとり歩きしてしまうどころか、光の速度よりはやく過ぎ去ってしまう瞬間。特に、決めゼリフに近ければ近いほど、凡百の作品ならばそういったことがよくある。その要因のひとつに、その言葉が映画の言葉ではないということがよくある。ただ、今作にはそういった瞬間が一瞬たりともない。

それは、主演の2人のありきたりな言い方で言えば、まさしく演技力。いや、それを見つめる天野千尋というひとの嫌味のなさ。登場人物を上からでも下からでもなく、その人と同じ立ち位置から互いに目線を合わせているかのようだ。

悪いことをしたら、ちゃんと謝る。そんな簡単なようで、実は生きていく上で最も難しいこと。それは、人と人のあいだにはちゃんとした垣根があるからだ。それを無視した乱暴でみっともないこともできたであろうが、そんなことを徹底的に拒むしち面倒くささ。そこから広がる被害・加害のイメージの膨らみ。だからこそ、幻視・幻触のモチーフはあれでなくてはならなかったのだ。そこには無限の可能性がある。もちろん正・負、両方の側面とともに。

筆者のミューズのひとり、篠原ゆき子の魅力的な肢体には、ただただうっとりするばかり。そんなしょうもない下心はさておき、この作品に比肩するものと言えば、「れいこいるか」あるいは「ジョジョ・ラビット」くらいではないか? そして、なぜだかケンドリック・ラマーの「Alright」が頭の中で鳴り続ける。「一日の終わりに面白そうな映画でも観ようかな?」という程度の気持ちで観れば、大火傷。あえてこんな言葉を使えば、天野千尋という人はこの作品でこの国の女性監督の第一線に躍り出た。その船出にはこれ以上ない傑作。
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