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セノーテのmotoのレビュー・感想・評価

セノーテ(2019年製作の映画)
4.2
水中の世界に酔いしれる。

澄んだ水の中ではもはや水は水ではなくて空気のような存在の仕方をしている。ならばそこに浮かぶ泡、漂う魚、いずみに根をはる植物、沈む岩が不思議な存在の仕方をしている。そこには重力と同時に浮力という陸上には存在し得ない力が働いているからかもしれない。当然、光の様相もドラスティックだ。水の濃度によって光の現象は大きく変化する、水中を潜り進み続ければ同じ泉なのに全く異なる世界にいつの間にか迷い込んだ気分になる。

魚の浮遊する様はもはや幻想的で、一切の力学の存在を無効化させている。一切の力みもなく、反抗もなく、そして意図すらもなく、ただただ水中にて遊泳している。

水中の光の現象の描写は豊かで、水中のどの部分を、どのような距離感で、どのような光量で、撮っているのか全くわからないが、ただただ美しい映像が連続する。もはやこれをどう解釈しようかということを考えるのが不毛なほどの不思議な映像がいまだに脳裏を去来する。

水の界面が感動的だった。水面の表面は我々は見たことがあるだろう。

では、水面の裏側を見たことはあるか?

水中にとって水面の裏は「天」であり、「天」は常に揺蕩い、そしてときには水滴が降り不思議な音楽を奏でる。もしくは人間が「天外」から落ちて来て、水をかきわけ泳ぐ。我々のように陸上にくらす生物にとって「天」とは空であり、あまりの大きさにその流動は雲の動きでしか知ることができない。泉の中の「天」はこのように常にさらにその外の世界と呼応し、運動を続ける。同時に水はその動態を包容し、穏やかな無の状態へ昇華させる…。

音はどうか。水をかき分ける時の「マ行」のような丸みの輪郭を帯びた音や水面に落ちてくるしずくが奏でる音、背景音で重ねてくるマヤ民族の詩や音楽…まさに恍惚させるような音の体験でもあった。



水中の幻想的な映像はなんとiphoneで撮影されたと監督は説明する。なるほど、iphoneの光量の自動調節機能によって、ときに映像の明暗の変化が起きたわけだ。映像の光の変化自体には意図はなく、ありのままにその映像を素材の一部として認める。小田監督は主観的に受動態を取ると語っていた。つまり素材は素材で、ありのままにまず受け入れ、編集の段階でそれらに意味や役割を付与させていき、映像の素材から浮かび上がるものを探っていく。映像には手垢がついていないからこそ一定の純度を保ちつつ監督の主観やメッセージは埋め込まれているにではないか。

今自分の目の前にあるもの/状況にリアクションを取るということが主観的受動態を噛み砕いた説明になるのかもしれない。意図や目的・あらかじめの意味づけ・役割の付与などといったことが先立っている撮影と異なり、素材を撮り貯めその後に意味や役割を、時には発見的に、付与していく編集のプロセスでは持って1時間であると小田監督は語る。実質な進捗はなくても、何かをプロセッシングしているんですよ。とおっしゃっていた。それは絡まった毛糸玉を解こうとしているようなことかもしれない。見かけ上ではよくわからないけれども、確実に少しづつ絡まりがほどけていっているからだ。

iphoneの機能も所与の条件として受け入れている感もあり、実際にそのようなカメラの特性を持つiphoneを道具としてクールに客観視できているあたりからもわかるように、所与の条件・既存の状態というものに関しての受け入れる懐は非常に広い印象を持った。自分がやるのはその目の前にあるものに対してどのような意味づけを行うか。セノーテはドキュメンタリーと思われるかもしれないが、主観的受動態を取り編集加工を行っていく小田監督の「手つき」、「ナラティブ」のもとでは確かに映画として成り立っているのではないかと感じた。
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