社会の不寛容さに対する疑義。
しかし寛容のやりきれないほどの困難さ。
三上はヤクザもんだ。
はみ出しもんだ。
簡単に社会に受け入れられるわけがない。
そこの暴力性をきっちり描いているところがいい。
ヤクザはケンカする、暴力を振るう。
だから強さはヤクザの力の淵源ではある。
でも、ヤクザの強さは格闘家やスポーツ選手のそれとは違う。
爽やかさがない。
なぜなら絶対負けを認めないからだ。
仮に負けたとしても、必ず仕返しして落とし前をつける。
たとえ死んでも、代わりに誰かが落とし前をつけに行き、暴力の連鎖は終わらない。
だから、ヤクザはケンカに勝つためには何でもする。
平気で噛み付く、脚立で殴る。
卑怯な手を厭わない。
そこがヤクザとカタギの違いだ。
「当たりどころが悪かったら死ぬ」かもしれなくてもやるのがヤクザ。
躊躇するのがカタギ。
その狂気をしっかりと描いていた。
三上はヤクザで、悪党だ。
それでも正しさへの信念、他者への優しさ、母親への思慕といった人間らしい感情、良心がある。
だから、根はいいヤツなのか?
違う。
悪党の中にも小さな輝き、美しさがある、ということだ。
逆に、カタギだろうが、一般にいい人とみなされる人だろうが、その中には必ず狂気や邪悪があるはずだ。
悪党だって、ヤクザだって、人間だ、ということだ。
三上が衝動的であるのも、暴力のハードルが低いのも、ネグレクトやそこからくる愛着障害や、後には暴力を振るうことで得た成功体験の誤学習などがその原因だろう。
その意味で彼は悪党だが、被害者でもある。
そして、被害者であっても、加害者になることを妨げないし、その罪は相殺はされない。
しちゃいけない。
三上はしかし、我慢を覚え、ついに悪党であることをやめようとする。
観客は、そこで受け入れる側のカタギ社会の醜悪さを見せつけられる。
それは、つまりわれわれ自身の醜さそのものであり、だから観客はここにおいて、どうしようもなく胸を締め付けられる。
俺は、三上のような元犯罪者や、元ヤクザ、三上が心を寄せた同僚のような障害当事者を何人も知っている。
社会は「改心し、更生し、問題を起こさなくなれば受け入れてもいい」「訓練し、障害が業務上の問題にならなくなれば受け入れられる」と、そう言う。
そして彼らは大抵、問題を起こす。
よくなったかな、落ち着いたかな、だいぶ慣れてきたな、という頃に。
だから、結局、彼らは受け入れられることはない。
タラレバの条件つきの受け入れなんて、そんなものは社会の一員として認めているとは言えない。
しかし、それでも受け入れなければ、三上はまた暴力を振るうようになるだろうし、同僚の彼も行き場を失うだろう。
排除されるものを包摂するために本当に必要なのは、三上を受け入れようとした、津乃田ら個々の直接関係を引き受けた人々であるのは間違いない。
でも、同時に重要なのは、直接関わりのない大勢の市民一人ひとりが、もう少しずつだけ三上らに共感し、排除しょうとする空気こそを排除していくことに他ならない。
その点、社会の不寛容さを強烈に批判した監督の意図に全力で賛意を表したい。
寛容な社会というとき、キレイゴト抜きに、何を受け入れることが本当のところ必要で、それにはどんなリスクがあるのか。
まざまざと提示して見せる、とても密度の濃い2時間だった。
ただ、印象的なタイトルバックに監督が込めたアイロニーには、素直にうなずきたくない。
なぜなら、この映画で描かれたような、はみ出した人びとを身近に知るものとして、社会の不寛容は現代社会の問題というより、昔からずっとある問題で、それでも少しずつ確実に良くなっていることも事実だから。
「すばらしき世界」では確かにないが、かつては、もっとすばらしくなんかない世界だった。
だから、俺は「もうちょっとだけすばらしき世界」を見つめて、目の前の「彼ら」と付き合っていこうと思う。