ヤマダタケシ

ミッドナイトスワンのヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

ミッドナイトスワン(2020年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

2020年10月 TOHOシネマズ立川立飛で
【ケンカ腰で観てしまった】
 監督の例のツイート(今作は社会的な作品では無くてあくまで娯楽です)があったので正直粗を探すようなケンカ腰で観てしまったってのはかなりあった。
【前半は普遍的な弱者の話として大雑把に楽しめた】
 だが前半部はそれでも結構楽しめた。トランス女性の主人公・なぎさが行く先々で受ける好奇の目線や心無い言葉など世の中の悪意や彼女の生きずらさが少し誇張されたようにも見えたが、実際にこの程度差別はあるかもという感じであったし、その若干の大雑把さは気になるほどでは無かった。
 むしろこれはある程度大雑把な描き方なんだと思って見れば、今作でなぎさや彼女が引き取る一果が感じる孤独感や絶望はむしろ一部のマイノリティに限らず、普遍的に同じような孤独を抱える人に届くものだと感じた。
 差別され、他人から拒絶されて生きて来たなぎさと一果。それゆえに他人と関わることができなかったふたりが、最初一果がバレー教室で声をかけられることをきっかけに、その自分から他人に関わって行く姿勢が連鎖していく。
【役者がいい】
 「不幸のすべり台はいちど落ちたら止まらない」「なんで私だけ」など正直あまりにもまっすぐ状況について語り過ぎだろってセリフがちょこちょこあったが、それでも今作のドラマに説得力を持たせてたのはそれぞれの役者だったと思う。
 後半に行くに従って少しづつ表情が出てくる一果。今作の良い部分は何より映画全体を通して生まれてくる彼女の表情である。それを成立させる前半部での彼女の所在なさ、野良猫のように見えるまなざしや身体の動きは、やがてそれが言葉になり人を抱きしめるなどのちゃんと意図を持った動きになっていく事によって感動を高める。前半の置きどころの無い彼女の手足はちゃんと彼女の置かれている状況を表わしていた(屋上の「なってないよ」のシーンはスゴイ良かった)。
 またトランス女性を演じる草薙強もとても色っぽく同時にくたびれた感じのある存在感があった。
【映画的である事への奉仕】
 ただ楽しめなくなってきたのは後半、いわゆるこの作品が映画的になっていく過程であった。今作が映画的にやろうとしたのは「草薙強演じるトランス女性が、その男性の身体から抜け出し女性へとイメージ上で変化していくこと、その中にいくつも重なる母親や社会的な男性のモチーフの数々」だったのだと思う。
 今作のラストシーン、瀕死のなぎさが海の向こう(あの世)の手前に見る女子のスクール水着を着た女の子のまぼろし(現世では成ることができない自分像)と、そこに重なって踊り始める一果。それをながめるなぎさはゆっくりと息を引き取るわけだけど、それは映画的な意味合いにおいてなぎさがある種一果として転生していく姿に見える。
 ただこれを成立させるために〝トランス女性=不幸に落ちて行く宿命〟みたいなイメージをなぎさに付与していたように見える。そしてそれはラストの盛り上がりのために、映画的な意味において必要な単純化だったとも思う。
 今作において、その単純化は瑞樹という後輩のショーダンサーを通して、トランス女性全体によくある事情のように描かれていると思う。
瑞樹という人物を通して描かれるのは「トランス女性である人物が掴むことができない〝愛〟を求めて他人にすがることによって自らを捧げ落ちて行く過程」であると思う。それは後半、〝一果のため〟に生き、彼女の本当の母親になるために性転換手術を受けその結果死んでいくなぎさの在り方とも重なる。
この部分の、自分の身体をアイデンティティに合わせ変えて行くという行為の動機が他人にあり、その結果として自分自身として自分を認められない(一果に重ねることによってそれを成就させる)ということ自体が、映画とは別のところで違和感なのだが。
で、そのトランス女性=自らのアイデンティティと身体が一致せず、それに強く憧れながらもそれが手に入らない不幸な存在であるという描き方は、今作のラストの映画的な瞬間のエモーションのために必要なものなのである。
【映画的である作品!その責任と本気】
 最後まで観て思うのは、今作が実際のトランスジェンダー云々を描く事よりは最終的に映画的なラストを描くことに重きを置いた作品であるという事だ。
 その意味で監督がツイートしたように〝社会的な作品では無い〟のだと思う。
 社会的な正しさと映画的な、芸術的な正しさは異なる。それこそ登場人物に実際の個人としてのその人の性格や幸せを無視して何かのモチーフを投影することは、映画というジャンルでは特によくやる表現である。それこそ大林監督作品は毎回それをやっていた。
 ただそこに〝社会的ではありません〟という逃げは存在しなかったし、映画としてその人を幻想のイメージの中に閉じ込める事にマジであったと同時にその暴力性に絶えず自覚的だったと思う(『野のなななのか』)。『呪怨』の高橋洋もあのモチーフを今描く事の覚悟にも通じる。それは正しくないけどある種の感情や欲望、存在をちゃんと映画の中で描いているのである。
 それらの作品を観て思うのは、明らかにそこに対しての異常な熱量を感じる。
 しかし、今作は先のツイートも含めその覚悟じたいがあまり無いように思ったし、それは個人的に作品の熱量からも感じた。「上手いね!」とはなるのだが心酔はしないのである。
 で心酔できないと冒頭の大雑把な描き方やステレオタイプな不幸のイメージそれ自体がすごい引っかかるのである。

・てかちょっとオマケみたいな感じで同じバレー教室のりんちゃんが飛び降りるシーンとかマジなんだったんだろ。一果がコンクールで踊る姿と彼女が別の場所で踊る姿が重な る(踊り続けるバレリーナと落ちて行くバレリーナ)ってのは確かにシーン単位では映画的だと思うけど、その事が一果の中でどうだったのか?って事については一切触れられないし、本当にあそこを見せ場にするために死んだ感がある(一果が最終的に背負うのはなぎさなわけだし)
・トランス女性であると言う事=不幸のモチーフになっている。
・マイルドな園子温っぽいよね
・60年代の時代設定とかだったらまだ100歩ゆずって観れたかも
・最後は社会的なとこから浮遊してくけど中盤くらいにかけてはちゃんと社会的な接点は持とうとしてたよね