裏『LA LA LAND』
デイミアン・チャゼル監督の魂の叫び。
『LA LA LAND』でアカデミー賞始め、世界を席巻したデイミアン・チャゼル。
再びハリウッドを舞台に、果たして次はどんな作品を…と思っていたら、『LA LA LAND』のある種ファンタジー的な世界観から暗転。
監督の本音と闇と深過ぎる映画愛が滲み出る、キラキラハリウッドに中指突き立てるような作品に(そらアカデミーで総スカン喰らうわ。けれど、それも意図通りな感もある)
なのに、ラストシーン馬鹿みたいに泣ける。
「愛故に」ですよ本当。
サントラやジャズライブなど、意図的に『LA LA LAND』とリンク&対比させた感があり、キラキラした夢のようなハリウッドの真逆の姿、汚物と性愛溢れる阿鼻叫喚×酒池肉林の裏側をオブラートに包まず曝け出す、まさに裏『LA LA LAND』
分かりやすいエンターテインメント作品としては、恐らく意図的に配慮せず作られているので、「映画」という文化や歴史への造詣が要求される玄人向けの仕上がり(『雨に唄えば』ってナニ?みたいな観客は、元からターゲットにしていない)
ここまでの作品でポジションを築いた今、映画とその産業界への自身の複雑な憎愛を、満を持して、ようやく好きなように、まさしくゲロのようにブチまけた感ある。
『セッション』『ファースト・マン』しかり、彼の描く世界は、今作で明確に語られた様に「何か大きなものの一部に刻まれる」「そのために自身の全てを捧げる」狂気すら孕んだ熱情への賞賛と畏敬であり、一方で付きまとう虚しさや愚かさであり、それは彼自身の価値観に他ならない。一周廻って改めて映画界をテーマに描いた今作は、愛と絶望と、何より狂気も帯びている。
今作のテーマは、映画やその主戦場であるHOLLYWOODへの深すぎる「愛」故の「怒り」なのか「憎しみ」なのか「諦観」なのか、そのように解釈した。
それはマーゴット・ロビー演じるネリー・ラロイのように、魅力的でいながら同時に途方も無く醜悪で面倒臭く、愛の深さに比例して究極に憎々しい、ファム・ファタールのような存在。
その感性に非常に共感する一方、こうした作品が興行的に成功する可能性は薄く、それを理解しながらも撮る選択をした勇気と、そこに集った俳優陣を、素直に称えたい(今作のキャスティングは、そのプロット故に随分と難航したらしい)
原作ベースに程々の興行収入が得られればOK、シーズン1で観客の反応を見て次に繋げばOK、そんな作品が溢れる現代に「俺が愛した映画はそんなもんじゃねえ!」という叫びのようなメッセージを感じた。
同じく映画愛を主題に美しく切ない物語に仕上げた名作『ニュー・シネマ・パラダイス』 や、豪華絢爛の裏に潜む純粋さにアプローチした『ムーラン・ルージュ』も脳裏によぎるものの、彼の描く世界は全く異なる。
チャレンジし、失敗し、またチャレンジし、絶望的に失敗し、ドン底の中でも次の可能性を探す。やり続けるか、諦めるか。
正に『BABYLON』
人が生み出す底無しの欲望を糧に、何百回も何千回も同じセンテンスを繰り返しながら、それでも世界は廻り、積み上げたと思えば崩壊し、また輪廻の如く、粛々と廻っていくのだ。
ただ、同じことの果てない繰り返しのようでいても、そこに刻まれる記憶と歴史があり、だからこそ、いつか死しても生きる意味がある。
花火のような狂乱の果てに、形を成す美しさ。
素晴らしかった。