どらどら

MINAMATAーミナマターのどらどらのレビュー・感想・評価

MINAMATAーミナマター(2020年製作の映画)
4.2
- 我々は戦い続けにゃいかんのです

優れた映画だと思う
しかし、それでもなお、真実の重みを前に、この映画はあまりにナイーブだと思う

高度経済成長期の中、水俣という漁村を襲った、人間の尊厳の蹂躙
社会はこれを無視し、水俣は分断され、チッソはぬけぬけと汚水を垂れ流し続ける
水から徐々に集約された水銀は、彼らの生活の糧を、命を、その存在を、蹂躙した
否、蹂躙し「続けている」のである

「水銀被害を克服した」と言い放つ人間が長期政権を築き上げ、
被害の構造は黙殺され続け、
何よりそれに無自覚に加担している我々

この映画のように、ナイーブな連帯は許されないと思う
飢えも、仮に死に至るような暴力でも、彼の地で平然と今日も行われている蹂躙には、比べようもない
水俣は「水俣」として今日も未決のまま戦っている
我々に「可能」なのはただ沈黙することであり、
我々が「なすべき」なのは彼らとともに戦うことのみであり、
何より我々の「義務」は、その狭間で苦しむことであるのだ
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水俣病をテーマに、ジョニーデップというスター(結果的に足を引っ張っている側面が今回は強いが)を用いて映画を作ること自体は、極めて価値のあることだと思うし、この映画は、水俣の真実とユージン•スミスのトラウマからの再生を見事に重ね合わせた優れた作品だと思う。
しかし、その「優れた」という点においてこの映画は、水俣の真実の、沈黙することしかできないほどの「重み」を軽くしてしまっていると言わざるを得ない。
それは映画の欠点というよりは、その真実のあまりの重さによるのやも知れぬが。

石牟礼道子「苦海浄土」、原田正純の「水俣病」をはじめとした、ともに苦しみ、戦ったものたちの記録に比してこの映画はあまりに軽い。水俣は「水俣」として問題なのである。ユージン•スミスは水俣に没入することでその仕事をやってのけたが、本来その経験の固有性と傍観者という名の加害者には圧倒的な距離があるはずである。それを乗り越えられるというのは傍観者の傲慢でしかなく、その距離に苦しみ悶えることこそ我々は要請されるのではないか。

むろん、本作のユージン•スミスはその点に葛藤する。しかし、かれはその葛藤の解決と、自身の沖縄戦というトラウマからの再生を、合わせることで解決する。「共有させてくれ」という。ユージンは現にそれを成し遂げたのだろうと思う。しかし、少なくとも無自覚な加害者たる私たちが、そこにカタルシスを感じるべきではない。苦しみ悶え続ける必要がある。この映画のユージンと自己を一体化させることは、あまりにナイーブだろう。しかし映画はそれを拒絶する険しさを持ち合わせていないと僕は感じた。

ラストの公害の列挙も疑問。世界に溢れる公害に改めて喉元に刃を突きつけられた思いだが、水俣は水俣として未決なのであり、それは「多くの公害の中の一つ」では断じてない。それはここに列挙された全ての公害に言えることであり、その先の連帯こそ必要なのではないか。

俳優陣は圧巻。
葛藤しながらの連帯は可能であることを見せつけたジョニーデップ
一市民として、その胸中を痛切に表現してみせた浅野忠信
「拒絶」を全身で見せつけた加瀬亮
人間として怒る、その美しさを体現した美波
戦うことを観客に要請する熱を持った真田広之
ジョニーデップに対峙しながら、全く見劣りせずに決して奪われ得ぬ人間の尊厳を見せた青木袖
そして、胸にせまる坂本龍一の音楽

総じて、極めて優れた映画であるが、(僕の水俣病への思いがある故かもしれないが)その綺麗さに違和感を覚えた。それでも、この映画で世界に水俣が発信されることは極めて意義深く、どっかの元首相に見せつけてやりたい。

この映画で水俣病を知らねば、と思った人は苦海浄土を読んでほしい。著者•石牟礼道子の言う通り、これもノンフィクションではない。しかし、徹底して水俣に根ざした彼女の生み出す語りは、圧倒的な真実味を持っている。野球少年のエピソードだけで、この映画の数倍の迫力がある。
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