[挿話に分割する必要性って] 40点
本作品は全寮制男子校のお調子者ギヨームとその大学生の義姉シャルロッテの恋愛物語を交互に配置したロマンス映画という体を取っている。女性教師にちょっかいを出したり、偏屈な教師に目を付けられたりするギヨームは典型的な男子校生徒を思わせるが、彼が道化師のように振る舞っている裏の理由として、親友のニコラスに恋していることを表明すると事態は悪い方へ転がってしまう。彼は授業の発表の場を使ってニコラスへの思いを表明し、その場面では"よく言った!"と英雄的に迎え入れられるが、すぐに腫れ物扱いされて嫌煙されるのだ。平等性の概念だけが広く普及した現代において、差別的な意識の本質は何も変わっていないことを示す見事な挿話だ。
一方、女子大生シャルロッテはパーティ三昧だが、写真好きの彼氏マキシムが"もっと性的にオープンな関係でやってこう"と言ったことで男女の関係に悩むことになる。直後に付き合い始めたテオは何股も掛けてるクズだし、自分もマキシムを無下には出来ないと感情は揺れ動く。正直ありがちな展開だが、ギヨームの物語と交互に語られることで多様化した現代の恋愛はどのように変化したかをサンプリングするという意味は持つことになる。しかし、言ってしまえばその枠組だけで成立しており、表面的な恋愛関係の描写は数少ない人物を掘り下げるには甘く、なぜ義理姉弟なのかも、交互に語るのもこれといって何か深い意味があるわけではない。
すると映画は唐突に姉弟の関係から逸脱し、何も関係ない少年少女の"初恋"の挿話に鞍替えしてしまう。前の挿話を苦々しいまま宙ぶらりんにした挙げ句、甘い"初恋"話に逃げてしまうのだ。結局、異性恋愛、同性愛、初恋という"恋"の形態を三つまとめてみました、というパッケージを超えることはなく、淡い色彩で煙に巻こうとするセコい映画だったのだ。ギヨームの挿話が強烈かつ素晴らしかっただけに非常に残念だ。