白眉ちゃん

水を抱く女の白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

水を抱く女(2020年製作の映画)
4.0
『ウンディーネが抱いて眠るベルリン慕情』


 映画はカフェの一角での別れ話から始まる。不実な恋人ヨハネスに対して、「(戻ってくるから)愛していると言って。あなたを殺すはめになる。知っているでしょ」と縋るウンディーネ。古代ギリシャ神話をモチーフの起源とし、フリードリヒ・フケーの『水の精 ウンディーネ』(1811)などでも有名な「愛する男が裏切ったとき、その男は命を奪われ、ウンディーネは水に還らなければならない」、この設定をクリスティアン・ペッツォルト版の『Undine』もしっかりと踏襲していることが窺い知れる。

 フケーの『水の精 ウンディーネ』を読了された方なら、続くシーンでの博物館のガイドを務めるウンディーネの姿に、にんまりと笑みをこぼされるかもしれない。フケーの『ウンディーネ』では、渓流が氾濫し、岬が孤島と化して騎士フルトブラントを足止めする。そこには愛する騎士を自分の元に留めたいウンディーネの不可思議な力が働いているらしい描写がある。物語を現代に置き換えたペッツォルト版では、ウンディーネは都市計画の歴史学者に素性を変え、ベルリンの変遷を見つめると共に、この都市の中で幻影のような”真の愛”の行方を探している。こういった社会の激動の中で愛や人生の所在を探し求める人物像は、ドイツの東西分裂、そして東西統合の社会変革を体験してきたであろう監督のお馴染みのものだ。過去作『東ベルリンから来た女』('12)から主演を同じくする前作『未来を乗り換えた男』('18)までに共通する物語の語り口、観客に提供する視点である。(『東ベルリンから来た女』以前の作品はまだ観れて居ない。是非ソフト化して欲しいところだ)

 潜水作業員のクリストフと出逢ったのは、”すべて”だと思っていた愛が終わった、その瞬間だった。水槽が砕け散り、大量の水がふたりに覆い被さる。ウンディーネの美しさに、ガラスの破片を抜く男の献身的な姿に、両者は恋に落ちる。まるで水がふたりをこの世界から締め出したかのようにふたりは愛の世界に誘われる。若い恋人達がおしなべてそうであるように、通りで身を寄せ合い、駅のホームで抱き合った。盲目的な愛の世界に隔絶されるふたり。訪れた湖で溺れてしまうウンディーネ。『サンセット大通り』('50)のような水死体のショット。前の男を殺して水泡に帰す宿命のウンディーネは、クリストフのキスという延命処置によって束の間、甦る。彼女はヨハネスを必ず殺さねばならず、これは運命の相手を取り違えた彼女がその宿命を先延ばしにしているのである。ここの誓約がわかりにくい為にクリストフが脳死状態に陥り、絶望した彼女がヨハネスを殺しに行く思考もややわかりづらい。ウンディーネはBee Geesの「Stayin' Alive」(生き続ける)に耳を傾けながら今生に留まり続ける。

 『水の精 ウンディーネ』にはウンディーネの恋を妨害し、騎士たちの命を脅かすキューレボルンが登場する。自在に姿を変えることができる彼がもしこの映画にも登場しているのだとすれば、誓約の履行を促すあの人物が怪しいのではないか。確証はなく妄想の域をでないけれども。


 近代建築の定説としてアメリカの建築家ルイス・サリヴァンの言葉で『形態は機能に従う』というものがある。「機能を追求していけば、おのずと形態も洗練されていく」という思想だ。言い換えれば機能に優勢が置かれている。都市計画のガイド時に引用されるこの言葉は建築のみならず、恋愛にも適用できるだろう。「相手を愛する機能が備わっていれば、特定の個人という形態にこだわらない」。ウンディーネは最初に愛した男に添い遂げなければならないが、この男性本位な恋愛観は現代的ではない。『水の精 ウンディーネ』の派生作品にあたるアンデルセンの童話『人魚姫』を現代のジェンダー意識で解釈したアグニェシュカ・スモチンスカ監督の『ゆれる人魚』('15)でも批評されていた恋愛観だ。ウンディーネは正しく自分を想ってくれる相手(クリストフ)との出逢いによって、男性的な神話の呪縛から解かれていく。

 クリストフもまた異色の男性像である。『人魚姫』ならびにその派生作品に顕著だが男女の世界には明確な隔たりがある。陸は男の世界であり、海(水)は女の世界である。『ゆれる人魚』でも、はじめはバスタブから空想の海に男を引きずり込めた人魚も最後は人魚の神秘性を捨てて陸の生活(男の世界)を選んでしまう。ATG提携の池田敏春監督の『人魚伝説』('84)でも男は舟の上までで、海に落ちるのは死んだ時だけである。こういった不可侵の不文律がある中、潜水作業員のクリストフは陸と海を行き来する。前カレのヨハネスがカフェの一隅を定位置とし、ウンディーネの制服姿を「はじめて見た」と言うように決して彼女の世界には興味を示さない。対してクリストフはウンディーネの解説を「聞きたい」と言い、最後は彼女に会う為に湖を潜っていく。『Undine』の世界の男性像も更新されているのだ。

 『形態は機能に従う』は恋愛のみならず、政治思想にも適用できるだろう。近代建築思想への批判としては「均質化」がしばしば挙げられる。現代の「個」の暮らしに依った均質なデザインや生活環境の提案は、旧東ドイツの社会主義体制が推し進めてきた平均化された生活とも重なるのではないだろうか。独善的になっていった政権のことを鑑みれば、「国民の豊かな生活という機能を追求することが、政治思想や社会モデルという形態のあるべき姿」とも言えるかもしれない。古典の相関関係やプロットを下敷きにし、幻惑する現代のロマンス劇に仕立てて、同時に東ドイツが掲げた理想社会への反省と未来のベルリンへの憂慮が描かれる。単に現代劇にするだけでなく、『Undine』の本質をもってして今の社会に問いかけている。現に『水を抱く女』はウンディーネの悲しいロマンスに終始しない。2年の歳月を経て、新たな生活へと向かったクリストフを見つめるウンディーネの視線で終わっていくことに、そのメッセージがあるのだ。

 監督が得意とする幻想演出。2年後、潜水作業中のクリストフの前に現れるウンディーネの幻影。思えばウンディーネにとっても初めて会った時のクリストフの声が水中のようにくぐもっていたが、すべては潜水士の人形から発想した現実逃避だったのだろうか?それならばクリストフの不可解な電話にも説明が付くやもしれない。果たしてふたりの相思相愛の日々はすべて幻だったのだろうか?また形態と機能が蜜月関係な社会は存在し得ないのだろうか?否、クリストフが持ち帰った潜水士の人形がそれらが決して幻影ではないことを確かに告げてくれている。
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