ナガエ

ミッドサマー ディレクターズカット版のナガエのレビュー・感想・評価

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なかなかヤバい映画だった。「ヤバい」ということは知っていたが、なんとなくもっと「分かりやすいヤバさ」だと思っていたのだ。血みどろのパニックホラーみたいなイメージだ。まず、全然そんな物語ではなかったことに驚かされた。

さて、「基本的に映画館でしか映画を観ない」と決めている僕は、いわゆる「名作」とされる映画をなかなか観る機会がない。今回は、割と毎年やっているらしい「夏至の日に『ミッドサマー』を映画館で上映する」という企画があり、ようやく観れた(去年もこの企画があったのだが、前日ぐらいまでにチケットが完売していた。なので今回は、チケット発売直後にすぐチケットを確保した。案の定、今回も満員だった)。

しかし、2019年の映画だから、数年前から映画をバリバリ観始めていた僕は、全然観れたはずの映画だった。実際、この映画が公開されていた時期に、観ようかどうしようか迷った。で、結局観ないことに決めてしまった。理由はあまり覚えていない。普段僕は、「あの時のあの映画を観ておけば良かった」と思うことはないのだが、この『ミッドサマー』だけは、「いつかどうにかして観よう」と決めていた作品である。

「白夜の日に行われる祭り」ぐらいの知識しかないまま観たので、映画の冒頭しばらくの間、大学生たちがワチャワチャしているところから始まるのにそもそもびっくりした。というか、そのワチャワチャが描かれる前、主人公のダニーを中心としたあれこれの映像は、「なんだかよくわからんぞ」という感じで観ていた。物語の展開と共に、大体分かってくるようになるのだけど。

で、そのワチャワチャしている大学生の1人であるペレが、故郷スウェーデンのホルガ村で行われる「夏至祭」に皆を誘うところから物語は始まっていく。90年に一度しか行われない祭りであり、彼らの仲間であるジョシュは文化人類学を専攻しており、文化人類学的な関心からもこの旅に興味を抱いている。

ホルガ村についてからも、しばらくの間、これと言って何か起こるわけではない。もちろん、「そこはかとない不穏さ」はずっと漂っている。それは、「全員が真っ白な服を着ていること」「夜なのに明るいこと」「閉鎖的なコミューンな感じがするのに、90年に一度の祭りに完全な部外者をナチュラルに存在させていること」などから感じたのだと思う。

ただ、これと言って何か起こるわけではない。

さて、先に書いておくべきかもしれないが、僕が観たのは「ディレクターズ・カット版」である。映画鑑賞後にウィキペディアで調べると、劇場公開版だけで3種類存在し、それぞれ141分・147分・163分となっているのだが、ディレクターズ・カット版は170分である。チケットを取る際に、「3時間弱もある映画なのか」と驚いたが、ディレクターズ・カット版だからということだろう。

最も短い劇場公開版と比べると30分も長さが違うので、劇場公開版を観た人と僕の認識はずれるかもしれないが、とにかく僕の体感では、始まって1時間か1時間半ぐらいは、これと言ってなにも起こらないまま物語が進んでいくと言っていいだろう。

そして、そんな「何も起こらない」という状態のまま、唐突に「崖のシーン」がやってくるので、その落差にはちょっと衝撃を受けた。

いや、もう少し正確に言えば、崖での衝撃のシーンに至るまでの過程で、「これ絶対そういうことだよなぁ……」という予感があった。そしてその通りになってしまう。この映画では、何度もこのような「予感」を感じることになった。「たぶんこうなるよな、いやならないでほしいけど、絶対そうだよねぇ」というような展開が結構ある。

以前何かで、日本と欧米の「ホラー作品」の違いみたいな指摘を読んだ記憶がある(正確な記憶ではないので間違っているかもしれないが)。大きな違いは、日本のホラー作品の場合、「『こういうことが起こるだろう』と観客が予想したことが起こる」という点にあるそうだ。つまり、「これから何が起こるのか」を観客自身が予想出来てしまうことによって、恐怖がより倍加する、ということのようである。欧米のホラー作品の場合は逆に、「予期しなかったことが起こる」という作りのものが多いので、日本のホラー作品と比べるとあまり怖くないのだ、という指摘だったと思う。

その話を敷衍すれば、『ミッドサマー』の描写の仕方は日本的と言えるだろう。「やめてやめて、こういうことが起こっちゃうんだよね」みたいなことを観客自身が予測し、そしてその通りのことが起こってしまう、ということの怖さが、この映画にはあると思う。

そして何よりも、ホルガ村の住民が、それを「当たり前のこと」として受け止めていることが、観客の不安を増大させる。

もちろんそれは、客観的に見れば当然のことだ。ホルガ村で長年続いてきた価値観を元に儀式が行われているのだから、目の前で展開されることに住民が驚くはずがない。しかし、彼らが信じる価値観は、ホルガ村の外の理屈とかなり異なるため、村の外からやってきた者たちは面食らってしまう。

さて、少し脱線するが、僕はホルガ村の理屈に「合理的だ」と感じる場面があった。もちろん、すべてではない。というか、大体の理屈には拒絶反応を覚えるし、ホルガ村では生活したくないと思う。しかし、まさに先程触れた「崖のシーン」で示される理屈は、僕は結構アリだなぁ、と感じてしまった。「そのように予め定められている」ということが、僕らが生きる世界の価値観では理解できないだけであり、その感情的な忌避感みたいなものを一旦脇に置いてみれば、「そのように予め定められている」というのは、結構良い生き方に僕には思える(そう思わない人もいることは理解しているが)。すべての人にそのような価値観を押し付けるものではないが、一方で、このような価値観が許容される世界が存在しても良いようには感じた。

そして、観客が最初に強烈な違和感を覚えるべき「崖のシーン」で、僕はそんな風に感じてしまったので、それ以降も、「どうにか彼らの価値観を受け入れる余地はないだろうか」という視点で観てしまった部分はある。結果として、「崖のシーン」以降は、なかなか受け入れがたいと感じる価値観ばかりだったが、「外界に影響を及ぼさない」という条件付きであれば(まあ、ここが最大の問題なわけだが)、彼らのような生き方をする人たちがこの世の中のどこかにいても、まあいいんじゃないかと思う。

しかしそう考えると、やっぱり、ペレの存在が謎過ぎるよなぁ。いや、映画を最後まで観れば、ペレのスタンスがどういうものだったのかははっきり分かるだろう。それこそ、それが「巡礼」における彼の「役割」だったというわけだ。

もし、ペレの心の内に、揺れ動く何かがまったくないのだとしたら、その事実こそが最も恐ろしいと感じさせられてしまう。

映画の中では、様々な形で「狂気」が描かれるが、個人的にかなり興味深いと感じたのが「ルビ・ラダー」に関する言及だ。「ルビ・ラダー」とは、ホルガ村の「聖典」みたいなものであり、要するにキリスト教における聖書みたいなものだろう。論文のため、その現物をジョシュは間近で見せてもらったのだが、そこには「落書き」のようなものしか書かれていない。

長老はこの「ルビ・ラダー」について、「ある人物が書き、それを長老が解釈する」と説明するのだが、その「ある人物」に関する言及がなかなかのヤバさである。しかしやはり、それを「ヤバい」と感じるのは、僕らが「僕らの理屈」で物事を判断しているからであり、ホルガ村の面々は「ヤバい」ことだとは思っていないだろう。

結局のところ、ホルガ村を「大きな1つの生命体」と捉えればいいのかな、という感じがした。例えば蜂は、「女王蜂」や「働き蜂」など、生まれながらにして「役割」が分かれている。蜂という生き物は、たしかにそれぞれの個体が一個一個の生命ではあるのだが、その社会性を見ると、「1つの蜂の巣に生きる蜂の集合体」を「1つの生き物」と捉えた方が自然であるような、そんな生態だと聞いたことがある。

同じような考えを、ホルガ村にも当てはめることができるだろう。その村に生きる一人一人を別個の生命と捉えた場合、先の「ルビ・ラダー」の執筆者の話は「ヤバい」ことになるのだが、「ホルガ村に生きるすべての人間の集合体」を「1つの生き物」と捉えるのであれば、「そういう役割の人物も要る」という解釈が成り立つ。ホルガ村の住民一人一人を「細胞」のようなものだと捉えれば、「いろんな役割の細胞があって初めて一個の生命体として成立している」ということになるだろうし、そうであれば、一人一人の人間の「差異」は大して重要なものではない、という判断になってもおかしくないと思う。

「役割」という観点で考えると、18年ごとにその「役割」が変わっていくという仕組みも、まあ合理的といえば合理的だと思う。90年に一度開かれるというのも、18の倍数だからだろうし、随所に「9」という数字が出てくる(例えば、この祭りは9日間続く)のも、18の半分だからということだろう。「ミッドサマー(Midsommar)」というのは、スウェーデン語で「夏至祭」という意味のようだが(「summer」じゃなくて「sommer」だというのも初めて知った)、「mid」が「真ん中」という意味なので、次のようにも考えられる。

ホルガ村では、人の一生を四季で表しており、18歳から36歳が「夏(sommer)」である。その18年間の「真ん中」という意味で「9」が出てくるだろう。また、18歳から36歳の「真ん中」と考えると「27歳」だが、おそらくペレがそれぐらいの年齢なんじゃないかと思う(ジョシュとクリスチャンが大学院生のはずなので、ペレも大学院生だろうし、だとすればそれぐらいの年齢でもおかしくないだろう)。そんなわけで、「Midsommar」というタイトルは、ダイレクトに「ペレ」のことを指していたりするかもしれない。

まあ僕が考えられるのはこれぐらいだが、恐らく文化人類学や宗教学などの知見があれば、もっと色々深掘りできる作品なんじゃないかという気もする。

最後に、映像そのものについて少しだけ。全体的に映像は綺麗で、特に日差しが燦々と降り注ぐ、緑豊かな屋外に、ほとんどが真っ白の服を着た人たちが埋め尽くしているという色味的なものが良い。僕の中の「北欧っぽい色使い」のイメージが、画面全体をパキッとさせている感じがある。

そしてその中に、てんでバラバラの服を着た旅行者たちが交じるわけだが、そのことが「調和」を見出している雰囲気をよく醸し出していて、「そこはかとない不穏さ」の増幅に一役買っているように感じた。異常なことが起こっているのだが、なんとなく「映像の綺麗さですべてが帳消しにされていく」みたいな感じもあって、脳が認識する「事実」と「印象」の食い違いに、脳がバグるような感覚もあった。

なんにせよ、観れて良かった。
ナガエ

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