セッセエリボー

ミッドサマー ディレクターズカット版のセッセエリボーのレビュー・感想・評価

4.3
「夏のワルツ(Sommarvalsen)」という北欧の唱歌があります。2週間ぐらいしかない短い夏に、その大地の恵みに、北欧の人たちは深い感謝を示して踊って祝福するそうです。フリーフォート(Frifot)というスウェーデンのバンドの演奏がサブスクで聴けますがとても良いです。

まずカッコよすぎる。どんなホラーも逃れられない最低限の通俗さとか紋切り型、こちらへの目配せというか歩み寄りをほとんど見せない、「これやったらダサい」を一回もやらない別次元のストーリーテリングがシンプルにすごい。このひとがいるだけでホラーていうジャンル自体の芸術としての地位が跳ね上がってる感じする。
やばテクを駆使してアリアスターが挑むのは家族という壊しがたい牙城で、ふつうに僕らを捕らえてるような孤独でナルシスティックで精神病的な家族を解体してより高次のカルト的「家族」に従事させるプロセスを『ヘレディタリー』では反論の余地がないぐらいの緻密な伏線で達成したのだけど、それを第一段階とすれば家族が全滅するところから始まる『ミッドサマー』は第二段階の作品。ここで目指されるのは「家族」への完全な合一の達成というわけで、トランス状態を実現する儀式や神話的な図像の再現などで段階的にその目的は遂行されていく。象徴的なのは感覚の共有というやつで、誰かが喘げば周りも喘ぐ、誰かが嘆けば周りも嘆く、これこそ有史以前の集団がもつ「根源的一者への合一」、「家族」への編入ということになる。すべてが最初から完璧に予知されていながら、全くそれを避けることもできずただ嘆き苦しむ、そして最後には個は解体されて全体に飲み込まれる、この映画はジャンルとしてはホラーよりも悲劇と呼ばれるのがたぶんふさわしい。
と、すると。一番最後のシーンで笑みを浮かべてしまったダニーは、焼け落ちる者の痛みを共有するよりも自分の個人的な愛憎を優先してしまったことになる。つまり、家族のトラウマから解放されて完全に「家族」の一員になることができなかった。ほんとはダニーはみんなと一緒に嘆かなければならなかったのだ。メイクイーンを祝福する群の中に母の顔を見るシーンもそうだけど、明確に家族の解体を目指しながらもなお、アリアスターは精神病的・家族的な個人の情念を捨て去ることができず、「未知の・異質で・不気味な」文化を近代的な「個」と対置するレベルに留まってしまった。これからダニーが経験するアリアスターの第三段階とは「個」が完膚なきまでに削ぎ落とされる最も恐ろしいプロセスのはずだ。それとももはや物語も登場人物もなく、ひたすらにグロテスクでサイケデリックな祝祭が続く第四段階に飛び級で進むかもしれない。

そんなことよりおしりサポートおばさんが最高ですよね。


【参考になる文献】
・ハクスリー『知覚の扉』(平凡社)
・アルトー『タラウマラ』(河出書房新社)
・ニーチェ『悲劇の誕生』(岩波書店)

あとタイムリーに光文社古典新訳文庫に入ったM.R.ジェイムズの怪奇短編集『消えた心臓/マグヌス伯爵』に、スウェーデンの奇祭を記録した男の手記という設定の短編があるっぽい。未読ですがおもしろそう。

追記:ジェイムズ『マグヌス伯爵』読みました。関係なかった。