ネクタイを締めた百姓一揆を配信している動画配信サービス

『ネクタイを締めた百姓一揆』の
動画配信サービス情報をご紹介!視聴する方法はある?

ネクタイを締めた百姓一揆

ネクタイを締めた百姓一揆が配信されているサービス一覧

『ネクタイを締めた百姓一揆』が配信されているサービスは見つかりませんでした。

ネクタイを締めた百姓一揆が配信されていないサービス一覧

Prime Video
U-NEXT
DMM TV
Rakuten TV
FOD
TELASA
Lemino
ABEMA
dアニメストア
Hulu
Netflix
クランクイン!ビデオ
JAIHO
ザ・シネマメンバーズ
スターチャンネルEX
みるアジア
WOWOWオンデマンド

ネクタイを締めた百姓一揆の作品紹介

ネクタイを締めた百姓一揆のあらすじ

東海道新幹線の大成功から、新幹線が日本中で期待の的になっていた1971年(昭和46年)10月、日本国有鉄道(国鉄)は、東北新幹線基本工事計画を発表。停車駅設置が有力視されていた岩手県花巻市の市民は大きく期待していたが、市の誘致運動の結果、発表された設置予定停車駅は一関、北上、盛岡。そこに花巻の名は無かった。その上、線路も街の中心部を大きく外れていた。その時、数名の市民が立ち上がり「東北新幹線問題対策花巻市民会議」を発足。市民総決起大会を開催し、一市民の会議ながら、国鉄に直談判に行くなど、駅設置運動を始める。 一方、日本国有鉄道は赤字を抱えたまま解消できる算段もつかず、労働組合は暴走し、国民からの非難は大きくなるばかりであった。そして勃発した「スト権スト(ストライキ権奪還ストライキ)」。国鉄は大きな方向転換を迫られていた。 果たして、数十億かかるという予算の問題などを解決し、駅は出来るのか?時代に翻弄される国鉄を背 景に描く、新幹線請願駅の1つ「新花巻駅」の設置を巡る14年間の物語。

ネクタイを締めた百姓一揆の監督

ネクタイを締めた百姓一揆の出演者

原題
製作年
2017年
製作国
日本
上映時間
147分

『ネクタイを締めた百姓一揆』に投稿された感想・評価

トマ姫

トマ姫の感想・評価

3.0
これは作品の良し悪しをどうこう言う映画じゃないよなぁ。岩手県人として岩手の歴史が知れて良かった。

コロナ以前は当たり前のように乗っていた東北新幹線。開業後に新花巻駅が新設されたなんて全然知らなかったよ。それまでは北上まで出て新幹線に乗ってたんかなぁ。大変だったろなー。

有志で作られた映画ということだから役者さんもほとんど素人なのだろう。お芝居大変だったべなー。それでも『M 愛すべき人がいて』の主演のコよりよっぽど良い。

あー、あと、やっぱネイティブの岩手弁は違うな。去年から岩手が舞台の映画が続いてて立て続けに観たけど、役者さんがどんなに頑張って訛っても岩手弁全然しゃべれてないんだなってことを改めて痛感してしまった。難しいよなー、岩手弁。

映画復帰三部作の第三弾。これにて2泊3日の帰省終了。3日間毎日映画館行ってたから父親に笑われたw 翌週公開だったため前回の帰省でギリ観れなかった本作。今回違う映画館で鑑賞が叶ってラッキーだった。

2020年、記念すべき30本目。
東北新幹線・新花巻駅の建設に関わる、国、国鉄、県、市議会、市民を巻き込んだ超巨大群像劇。
東北新幹線の基本工事計画が発表された昭和46年から、上野-盛岡間が開業した昭和60年までの14年間の軌跡を追った、岩手県在住の有志によって作られた映画。
単なるサクセスストーリーに留まらず、誘致しようとする人達や市民の足並みが揃わなかったり、国鉄内部にくすぶる組合の問題、予見される鉄道時代の終焉なども盛り込まれており、当時の時代背景を知ることが出来る、近代歴史絵巻とも言えます。
さらに、決して建設に奔走した人達のヒロイズムを描いている訳ではなく、是非もなく、否応なしに駅建設騒動の渦中にいた者たち、花巻市民全体の履歴書でもあるのです。
国鉄の分割民営化、それに伴う人員整理という名の労働組合潰し、自動車時代の到来と鉄道時代の終焉、さらには地元人口の都会への流出、農業の後継者問題など、およそ田舎が対面する問題のほとんどを網羅していると言ってもいいでしょう。
かと言って小難しい話ではなく、「活きた岩手弁」で繰り広げられるコメディを交えたエンターテインメントです。
nats

natsの感想・評価

4.0
ある、地方の新幹線駅についての映画。来るはずの駅が来ないことになり、本来曲がらないはずの国の計画を、それを地元の人々がどうやって曲げて駅を誘致したのか。その争いの中で、誰がどう動き勝ったのか。あるいはどう敗者になったのか・・・という物語。

一見、流行りのプロによる味気ないご当地映画にも、地方の成功談礼賛にも見える。その上百姓一揆という今時見かけぬ泥臭い冠もある。未見の人へのハードルは高いに違いない。けれど、そのいずれにも該当しないこの今どきでないタイトルの映画は、思いのほかよくできていて、この監督には大作映画を作るセンスがあることを示している。

大作映画というものが、かつてあった。どこか行儀良くなってしまい、台詞とCGの量が増えてしまった、今のそれではなく、重鎮の役者があまた出演し、舞台もスケール大きく、展開も多彩。見たあと、良かれ悪しかれ満腹感を持って映画館を後にするたぐいの、往年の邦画の超大作である。本作の監督が、ローカリズム剥き出しの、この題材を依頼されて選んで目指したのは、そういう普遍的な大きさを観客に見せようとする作品世界だった。監督が置かれた制作環境から見れば、無謀と言う他はない。

だが、この題材なら、地方と自主制作のスケールのジレンマの中でありながらも、小さな枠に収まらない映画が作れると、監督はじめスタッフが本気でそう思ったようである。そうでなければ、スタッフもキャストも存在しない、制作体制ゼロ地点から始め、3年か4年かという長い時間をかけて制作を貫徹することもできず、地方の小さな自己満足の一瞬の打ち上げ花火で終わってしまっていただろう(また、実際にそうして消えてゆく映画の欠片のなんと多いことか)。手間をかけ育て続けられ、故郷から遠い場所のスクリーンにまでたどり着いて行ったこの映画の、その劇中の人々は、勝者も敗者も製作者全ての自画像のように映る。

畑で作物を育てるように、その土地で映画を作ろう。東京でもなく、自分たちは陽の当たる、華々しい業界にはいない。でも、この日々生きている場所に根付いていても、大きく面白い映画は作れる筈だと示して見せたい。そう言う思いがあったのだと思えば、タイトルに百姓一揆と冠し、監督本人は「(本名の)カズオ」ではなく「地べた」と名乗っていることに合点がゆく。この見かけの泥臭さは、意図を持って作られている。それは東京にも地方にも現在溢れる、中身の伴わぬ、空虚な、広告代理店的なスマートさよりは、よほどましなものだろう。


この映画の正体は、邦画やテレビがかつて得意としていた、多彩な層の役者を揃えた大規模映画の、地方文化による再生だった。演技経験の無い人々の、様々な(棒読みの人もいれば、驚くほどナチュラルな人もいる)演技を使い、演出の経験値と、地元のロケーション、インフラ、借景、人海戦術と、考えられる手段を使い、昭和史ドラマのいち断面を、全て具体的な場面で見せる再現を考え、そして実際に時間をかけてそれを撮り切っている。その意味で贅沢な作りであり、長さは感じない。一見の価値はある。


ローコストで作られるということは、その影に監督はじめ全ての関係者の無償の献身がある。今回の公開拡大で、それが報われて欲しいと思う。この国に恐らく多く眠っているであろう、監督氏同様に腕を秘めた、全ての映画作家たちが、各々の駅を建てる日のために。


2020/10/29 加筆訂正。