いのりchan

劇場版 きのう何食べた?のいのりchanのレビュー・感想・評価

劇場版 きのう何食べた?(2021年製作の映画)
4.7
お正月スペシャルと劇場版を鑑賞するにあたって既刊19巻までを読みました。かなり「感情」を入れ込んだ味付けで原作が再構成・脚色されているけれど、とてもきれいにつくられた仕上がりだと感じた。ていねいだ~。

原作については、連載開始当時(2007年)~現在までのゲイのひとたちのコミュニティや文化のようなものを描き出しながら、あらゆる家族像を映し出し、それらの〈繋がり〉が丁寧に四季と毎日のご飯で彩られていたとおもう。

ただ、佳代ちゃん(勝手に佳代子さんのこと佳代ちゃんて呼んでる)との出逢いエピソードや佳代ちゃんの家族とのシーンとかでみられる、「ゲイ」として呼ばれる/認識される、そのエピソード自体が面白さになってしまうことには時代とか関係なしに悲しい気持ちになるから、新しい版には注釈が必要かなと思ったりしている(恋人同士でも/家族の間でも/本人が目の前にいたとしても、他者に対して勝手に属性を開示をすることはアウティングにつながるものであり許されるものではありません、など)。

あと、原作ではお正月実家編?の最後(6・7巻あたりかな)など、泣き始めたケンジに寄り添うシロさんを見た若者2人が「死ね」などと暴言を吐き、それについて「死なない」などと言い合うふたりを最後のコマにおいてさらっと流して締めくくられていたけど、「そういう暴力は許されません」、かつ「そういう描写があります」との注釈が欲しいところである。

また、もともとゲイのひとたちの生活やコミュニティを描く作品が多くないのもあるけれど、それらの暴言を受け流せる“(強いか弱いかの二元論は支持しない)そうあるしかない”ゲイであることが描かれることが、生存戦略のひとつとして表象されているのかなあ、ということに思いを馳せた。

とてもとてもとてもこころに迫った点がひとつある。
原作にもあったホームレスの方の裁判員裁判のハナシが入れ込まれて、そこで、年配のホームレスその人が控訴しない理由として「どうせ俺みたいな(ホームレス)ものの言うことは誰も信じちゃくれないんです」と述べるところ。弱い立場の人たちが烙印を押され、「声を上げること」すら諦めなくてはならないところ。
若先生が、ホームレスの男性の理由に同調した筧さんに「それは法律家が言うことなんですか(大意はそう、ディティールは合ってないかも。すみません)」と詰めるところ。とてもとてもとても残酷だった。筧さんは、社会的に立場があって、たしかにホームレスの男性とは違うけれど、ホームレスの男性と同様に、同性を愛するという属性についてスティグマ(烙印)を押される実感とともにこれまで生きてきた。ゲイとして、パートナーのケンジとの平和な日常を送り続けることで、理不尽でサイアクな社会に抵抗している。
若先生はホームレスの男性の判決について、自分が助けられる立場の人間として悔しがっていたし、彼に「そうですね」と返す筧さんも相槌の通りに思っていると感じたが、そこには筧さんという個人の中に内在する、弁護士‐ホームレスの非対称性と、おのれのアイデンティティに係るゲイ‐そうではないひとの非対称性があらわれていたよ。ニンゲンはマイノリティ性とマジョリティ性のモザイクでできている。 

17巻の千波さんとタブチくんのハナシは、夫婦別姓の必要性を考えたし考えさせられるハナシだった。松村さんのタブチくんは原作よりミッコに対する態度が最初荒めでミソジニックな感じがしてこわかった。そこは調整しないと、彼女に「別れよう!!」と告げたあとみんながタブチくんをほめるシーンに全然共感できないんじゃない?わたしはできなかった…。

そして、17巻は「両親の仲超絶悪かったけどできるもんなら結婚したいけど!!」なケンジにすべてのひとの結婚の自由を考えさせられるわけで。
劇場版も、ホームレスの男性とのやり取りのシーンで、声を上げるということ、その難しさをとりあげていた。ほんとにほんとにほんとにこの『きのう何食べた?』が連載されてるうちに夫婦別姓も同性婚も実現したいわけ。2020年8月時点のケンジとシロさんの会話(原作)では「養子縁組したらそのあと同性婚が実現されたときに結婚できなくなる!」とケンジが言ってる(その理由で養子縁組した場合は、婚姻手続きを認めるとの議論がなされているとは言うけれども…)。

この物語をただ「消費」するのは本当に罪深いと思う。みんなこの物語に助けられている、ちからをもらった、とおもったのなら、自民・公明・維新以外の野党に投票することを考えるべきだ。これまでの各党の公約を読んで、国会でどんな法案の提案を、その意義の説明をしてきたかをかいつまんででもとらえて、これまでの与党の“実績”を調べて、与党が何もしてないサイアク与党だということをどうか考えて欲しい。

今の「おじさま」たちが国会や各地方議会の議席にふんぞり返っているうちは、強固な家族観を推し進めて、同性婚も夫婦別姓も実現しないし、男女問わず最低賃金も上がらないし、格差を強化する資源(食品だってエネルギーだってそうだよ)の国内外取引もうまくできずに物価は上がり続ける。ほかにもあらゆる複合的な要素が考慮されなければならないため、単純化して述べることは誤解を招くと思うのであんまりしたくない。が、誤解を恐れず言えば、賃金上がらないのに物価だけが上がり続けるおしまいの国でいつづけることになる。まさに今おしまいの国である。

同性婚に関していえば、と言及しようかとも考えたけれど、もうそういう問題でもなく自民党改憲案の中身は、おおよそ憲法として破綻している。元最高裁判事の浜田邦夫さんもそうおっしゃっている(https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-70288.html(2016年の記事);浜田さんは現在は弁護士として臨時国会を開かなかった政府の憲法第53条違反を訴える違憲書などを提出している:https://digital.asahi.com/articles/ASQ1P73TWQ1GUTIL03M.html?iref=pc_ss_date_article(2022年の記事))。

憲法は国民を縛るものではなく「国家」、国家権力である政府を縛るものなのに、自民党案におけるおおくの改憲条項が国民の権利を制限する“解釈がとりえる”文言に変更されている(https://kaikensouan.com/);こちらのサイトはたびたび自民党改憲案の原文と異なる、などと言われているが、公式サイトPDFの引用であるため、原文と同じものである。一応下に記載したけど、引用元も上記のURLに明記されリンクから飛ぶことが出来ます。https://constitution.jimin.jp/document/draft/)。

わたしは、男女の平等、(男女二元論や国籍などの分類に基づかない)「領域内におけるすべてのひとの平等」、そして男女の平等に基づいた夫婦別姓の実現に、より近づく改憲案なら議論の余地があると考えている。しかし、現在の改憲案はマジでヤバい。戦後どころか戦中に逆戻りだ。ていうか戦後のまま変わってないんですよ現憲法はね。いい方向にも悪い方向にも“まだ”ね。

本来ならば、わたしたちが日々注視しなくちゃいけないのは、報道機関が報道機関としての役割を果たすのであれば。

生まれの違いを是とする天皇制によってプライバシーの侵害にさらされ続けるご家族の近況でもなく、デパ地下の旬のスイーツの特集でもなく、お菓子を盗んだ生活保護を受けている方に関する報道でもなく、今日のにゃんこやわんこでもなく。

国民のために使う税収含む国費を、福祉や教育(OECD諸国で教育にかける国費は最下位で大学院生の扱いは酷い)に回さず利権を守るだけの今の政治家たちの責任を取らない姿勢を、検討し評価するための報道だ。
統一教会の関連報道で、尽力している姿勢はみられるものの、大枠は変わっておらず、今の報道機関はもはや自民党の広告塔となっており、機能していない。


だから言うけど。言い続けるけど。本来ならば。200円のお菓子を盗んだ弱い立場のひとじゃなく、何億円もの国費を透明性もなく、正当な根拠もなく使い続け、憎悪煽動を放置し、法制度を是正しようとせず、そのために女性や教育を受けたいひとや同性を愛するひとを含めた性的少数者や、選挙権のない外国籍のひとたちや、本来ならば難民認定されるはずの難民のひとたちや、日本で暮らすために本来の名前を変えなければならないひとたちのために、「なにもしようとしない、してこなかった」政府の姿勢・政策を注視し、検討しなければならないんじゃないですか。

声を上げているひとたちがおかしいんじゃない。声を上げているひとたちに耳を貸す気のない政府がおかしい。民主主義は、多数派の選択をとることにはなるけれど、それは少数派の意見を反映するという了解のもと行われるものだ。そうやって少数者・弱者はいなかったことにされてきたし、政府と国民相互の不断の努力がなければこれからも追いやられ、尊厳を踏みにじられ続ける。今はどちらも機能してない感じ。国民はみんな労働で疲弊していて、報道番組は、批判的検討なく政府の説明そのままを報道していて機能していないから、今政府がちゃんとやっているのかを評価できる情報にアクセスすることができない。

新しく杉並区長となった岸本聡子さんの就任の際のメッセージが印象的だった。
「私に投票しなかった人たちの思いをより意識的に聞いていく;https://digital.asahi.com/articles/ASQ7C5KFFQ7CUTIL020.html」
これこそが、本来の民主主義の健全なありかただとわたしは考えている。

だから、直近で言えば国葬に反対する世論の声をなかったことにする現政府(与党)の姿勢も不健全な姿勢でしかないし、そもそも国葬に反対する声がかなりの少数派ではないといえる今、国民の声に耳を傾けられない政府の姿勢はもう暴走的で破滅的だ。

まだ憲法は変わっていない。それにおおきな選挙で投票してない人もまだたくさんいる。投票行動を見直して、野党への投票を検討する人も、この混沌のなかで少なくないと思う。
でも、考えたいのは、参院選や衆院選、その他地方選挙って大きな選挙だけが手段じゃないってこと。疲れているけど、ほんとに疲弊しているけど、「社会は変わんない」んじゃなくて、「変えられる」し「変えなくちゃいけない」んだ。

この映画作品から得たもやもや、「なぜ、すべてのひとの結婚の平等は日本で実現していないのか?」からも、与党の何もしない姿勢、政府が何をやっているのか/何をしていないのか/もしかして何もする気がないのか?を評価することはできる(https://choiceisyours2021.jp/;参院選はおわったけど公約を改めて見返すこともためになると思う、https://www.marriageforall.jp/;結婚の自由の実現から出発するのもわたしが今すぐできることでもある)。

与党の中にだって、その支持者層だって、同性婚と夫婦別姓に賛成している人はいる。そして、同性婚に『明確に反対』している人は、政治家・支持者いずれも、2020年時点で半数に達していない(https://www.marriageforall.jp/blog/20201013/)。

つまりこれって、今決定権を担っている人たちが、今まで変わらなかったことを変えるために動かず、その場所でずっと足踏みをし続けているってことじゃない?

当事者以外が変わらないと、シロさんとケンジを取り巻く社会が変わんないと、ふたりの切迫した状況は変わんない。「こんなやさしい物語」に水を差すつもりはさらさらない。ふたりはずっと、ドラマの中でも原作の中でも悩んで迷ってそれでも生きている。
わたしが言いたいのは、「ふたりが結婚すべきだ」というわたしの押し付けではなくて、そうであってはならなくて、だけど「ふたりは結婚できない」というあきらめでもなくて。
「ふたりに結婚の選択肢が実現したら、ふたりはなにを選びたいかな」って、物語の「その先」を物語に反映させられるのは、現実に生きてるわたしたちだけだってことだ。

とりとめもなく書いてきたけれど、伝わると思って書いている。このまま書く。

変わるためのエナジーは、変わらないためのエナジーよりもはるかにおおきいものだ。今までの自分を作り上げてきた「なにか」を壊すことにつながる。でも、べつにそれはおのれをかたちづくるあらゆる要素をすべて否定することじゃない。つねにおのれのすべてを肯定してはいないのと同じように。

わたしは家族の投票行動を3年かけて変えてきたし、身近な友人とずっと投票行動について考え続けている。つねに自分を「壊す」、そして「つくりあげる」ことにエナジーを費やしている。
それはとても恵まれた環境にいるからこそできることであるけれど、だからこそおのれにできることをし続けていきたい。

これは提案だ。フィクションの中だとしても「まなざすふたり」に結婚して欲しいなら、自民・公明・維新に投票することを、やめよう。もちろん、当たり前にわたしの提案を受け入れるかどうかは個々人の自由だ。祈りが届くひとに届いたらうれしい。わたしの5000文字で「どうしてこのひとはそんなことを言っているんだろう?」と考える契機になったらとてもうれしい。

わたしにこれだけの文字数を書かせるちからが、実写化映像作品のみならず原作を含めて「きのう何食べた?」にはあった。ほんとうにありがとうございました。自炊の最良の動機づけのひとつです!

あとひとつ気になったのは、原作中でキスなどのスキンシップをとる描写が省かれているからこそ、映像化にあたって、それらの要素を足す必要について、製作チームはどう考えていたのかなってことかな。なにかインタビューとかでわかったらいいけど。時間があるときに調べて追記します。
「男(役)/女(役)」二元論から解放されえないゲイ当事者の家族の実像にも切り込んでいる作品なのだから、内野さんのコメントは原作でいうところの“10年前くらいの描写”と同じく、注釈が必要であるような、現在の理解に即していない発言だと感じました。


・・・


7月8日からマジですべてが変わっちゃった。暴力も憎悪煽動も分断も、より身近に肌で感じる脅威となっている。そんななか、「きのう何食べた?」をみて、もっと頑張ろうと思えた。この、演者が演じた「物語」を、絶対に「ただ消費するだけの有権者」になりたくない。がんばっていくわよ!